『花野に眠る(秋葉図書館の四季)』 森谷明子


10年前に「つづき、ないかしらね」と感想を書き終えた『れんげ野原のまんなかで』のつづきに、10年を経て出会った。
10年前に、作中の「黄色い背表紙の文庫本」が気になって、その答えを見つけられずにいたことを思いだした(いまだ見つけられないまま)
10年の歳月などなかったふうに、あの本の最後に広がる一面のれんげ畑から、この本もはじまるのだ。
懐かしい秋葉図書館に帰ってきた!


相変わらずの三人の司書の役割に安心し、閑古鳥の図書館にほっとする。
このたびのミステリは、図書館の中に留まらず、秋葉地区の歴史をさかのぼることになり、思いがけない人と人の繋がり(気持ちの繋がり)に気づかせてもらったりもする。
埋められた過去と向き合うことは、埋められた思いと向き合うことだった。
秋葉図書館らしい物語で、しっとりと後味もよい。
メインになる柱のまわりには、いろいろな人びとのいろいろな物語が重なる。その多重感もよかった。
懐かしい人との再会もある。
遠い過去のできごとのあれこれが、物語の導きのまま、「あの絵本」のタッチのままに、美しい水彩画となって目の前に浮かぶ。


そして、図書館の外の謎ときもおもしろいが、図書館の中の、本にまつわる謎ときが何より魅力的だ。
子どもと本の出会い方、その本を子どもが自分の世界に取りこんでいく方法などの不思議さ。繊細さ。それは、大きくなってもずっと自分の一部となって残るものなのだろう。
「物語は受け取る人によって変わる。それでいいんだ」という能勢の言葉をしみじみと噛みしめる。
たとえば、この一人の少年にとっての本からはじまる冒険は、彼だけのもの、かけがえのないもの。書き手の意図を超えて、読み手の心のうちで大きく本が羽ばたいていくようだ。
でも、それは、ここをごらん、と教わらなければ、わたしには気がつくことができなかった。
ヒントは確かにキャッチしたのだ。だから、私は二冊の本を手もとに広げた(大好きな本だ。でも、何度読みなおしても、そういうことに、わたしは気がつかなかった)
時々、来た道がわからなくなったとき、振り返り方を忘れた時、頼もしい道案内の司書がいることは本当にありがたい。
いろいろなことに気づかせてもらい、感動のおすそ分けにあずかる。


巻末の「登場した本一覧」は何と嬉しいことだろう。そのまま『読みたい本リスト』になる(もちろん再読したい本も含む。再読は、きっと今までとはちょっと違う気持ちで読む。)
そうだ、この本一冊そのまま読書案内でもあるのだ。


10年前、図書館好きにはたまらない、とわくわくした『れんげ野原のまんなかで』の雰囲気を、今、この本『花野に眠る』で、わたしは少し懐かしいようなさびしいような気持ちで味わう。
図書館との付き合い方も、短い間にずいぶん変わってしまったことを思い知る。
今の私は、読みたい本をネットで探し、図書館にもネットで予約して揃えてもらう。あとは、何かのついでに受け取りに行くだけ。長居することはない。図書館は、カウンターに寄って急いで帰るだけの場所になっていた。
以前、図書館は、そういうところじゃなかった。
一日じゅういても飽きないだろう、と思いながら、通った図書館。
棚から棚へ、本の背表紙から背表紙をたどっているうちに、何気なく手に取った本が、後々まで忘れられない大切な本になったものだ。
そういう本は、棚に並んだその姿のまま、なにかをこちらに向けて放射してはいなかったか。そのようにしてであったあの本この本を思いだす。
蘇るいくつもの顔もある。
子どもを連れて通った児童室では「公園に行くような気持できてくださいね」と声をかけてくれた司書さん。いつも児童室で出会い、ご挨拶するようになった子連れの常連さん。
ずいぶん遠くなってしまった。
そんなことを思い、久々にゆっくりと図書館で本を読みたくなった。棚の間を時間を忘れて歩きまわりたい、と思った。


『れんげ野原のまんなかで』を読み終えたときにも「つづき、ないかしらね」と感想を締めくくったから、今回も。
秋葉図書館の次の四季もぜひ見せてください。待っています。(そして、どうか、このまま変わらずにいてほしい)