『少年少女』 アナトール・フランス


子どもは天使でもない、妖精でもない。怪獣でもない。だけど、どうも大人とは違う生物みたいだ。


例えば、少女ファンションの場合、
獣がお話をしていたような昔、というのは、目の前にいるおばあさまが若いころのことだと思っているし、おばあさまが生まれる前に「ちゃんともうそんなにいろいろな物があった」ということは大変な驚きなのである。
子どもの「時間」と大人の「時間」は、長さも密度も違うのかもしれない。


ローズ・ブノアの場合、
算術で、12−4の答えをすらりと八つと答えられないのは、そんな理由があったのね。
正誤、できるできない、だけを追いかけたら、別の見方があることを忘れてしまう。
「必要」なことは、必ずしも「たいせつ」なことではないのかもしれない、と思えてくる。
ローズの中に広がる疑問の素敵なこと。ローズの中に広がる世界の素敵なこと。


ロジェは、木馬の栗毛に金櫛を入れる。
勇ましく、彼は、その背にうち跨って、はるか遠く夢の国の道を縦横に駆けていく。


ジャクリーヌが愛犬ミローのことで泣いてしまった理由を推し量れる大人はおそらくひとりもいないのではないか。
わたしはその理由に、はっと胸を突かれた。


子どもは全身を金の光(オーラ?)にぼーっと包まれている、と聞いたことがある。
大きくなるにしたがって、金の光はだんだん子どもの身内に吸収されていき、やがて、すっかり見えなくなった時、大人になるのだそうだ。
そんなことを思い出した。
大人が二度と纏うことのできない何かを纏った彼らの目から見える世界は、私なんかに見える世界よりもずうっと広いような気がして、ちょっと羨ましくなってしまった。
大人になって、たくさんのものを得たはずけれど、忘れてきたものも多いのだなあ、と思って。


羨ましがりの大人ではあるけれど、大人が子どもと繋がる美しいやり方(だと思う)も発見した。
戸外でたっぷりと自分の時間を過ごしてきた子どもを、夕昏時、家の前で両手を広げて迎えるのだ。キャベツ入りのスープの匂いでいっぱいの部屋を背中に背負って。手には匙をもったままがいい。