ふるさとは、夏

ふるさとは、夏 (福音館文庫 物語)

ふるさとは、夏 (福音館文庫 物語)


両親の都合で、みち夫は、夏休みの間、父の田舎に預けられることになった。
みち夫の一度も行ったことのない北陸、山間の小さな農村です。
と、この始まりを読みながら、都会のもやしっ子が、田舎でいろいろな経験をして逞しくなっていく、という筋書きを予想するのである。
その通りの話だったとしても、きっと私は楽しんだ。そういう話大好きだもの。
でも、そうではなかった――いいえ、そういう部分もあったけれど、それだけではなかった、というか。
たぶん、これは、なくしもの(なくしたということさえ気がついていないなくしもの)を取り戻す話だったのではないか。
そして、読みながら、わたしも気がつくのだ。
わたしもまた、なくしていたこと。
なくなってしまったことさえも気がつかなかったけれど、それはとってもとっても大切なものだった、と気づかせてもらったことに、感謝したい。みちくん、わたしも五尾村に連れてってもらったよね。


父の故郷、五尾村の駅についたとき、みち夫は、最初に、この土地の方言を聞く。みち夫は何を言われたかわからない。読んでるわたしもわからないのだ。
それなのに、これらの言葉には、何の注もついていない。意味がわかりそうな記述もほとんどないのです。
なんだ、これは。と面食らう。会話文のたびに眉間に皺がよる。
でも慣れなきゃいけないのよ。だって、主人公のみち夫以外、登場人物全員、こういう喋り方なのだから。
それが、読んでいるうちに、いちいち気にならなくなってきて、気が付いたら、何を言っているかわかっているみたいなのだ。ふしぎふしぎ。(ひとつひとつの言葉の意味を理解しているわけではないのに)
そして、そうだったのか、と気がつく。なんで作者が注をつけなかったのか。意味を教えてくれなかったのか。
このころには、みち夫をとりまくこの村の空気・人々の関係を柔らかく感じている。気持ちよくなじんでいる。言葉は空気みたいだ。


この村にはたくさんの神さまがいる。
田んぼにも、沼にも川にも、土くれにも、そして、田んぼにころがっている稲を干すための竿にまで。
どの神さまも土臭く、となりのおじちゃんやおばちゃんみたいに、気さくな感じだ。
本来、目に見えないはずの神さまに出会い、関わり、語り、一緒にものを食べたり、力を貸し合ったり・・・
これはファンタジーだなあ、と思ったものだった。でも、果たしてそうなのかな。
むしろ、神さまに「会う」ということが特別なことに思えてしまうことのほうが、不思議なことなんじゃないのかな、と思い始めたのだ。
見える見えないは問題じゃない。
そこにいる「存在」を心の目でとらえ(と改まって言うこともおかしいくらい)普通にともに暮らしていく。
そういう暮らしをいつのまにか失っていることのほうが、逆の方から見たら「不思議」なんじゃないか。
最初から最後までずっと変わりなく、ここの人たちはそうしていたんだね。みち夫も、わたしも、それが見えていなかったけど。
その当たり前さに気がついたとき、神々が一斉に笑ったような気がした。
夏の、夏らしい暑さが気持ちよい。さがしものは、もうすぐそこにある・・・