半分のぼった黄色い太陽

半分のぼった黄色い太陽

半分のぼった黄色い太陽


「ビアフラ戦争(ビアフラせんそう、1967年7月6日 - 1970年1月12日)は、ナイジェリアのイボ族を主体とした東部州がビアフラ共和国として分離・独立を宣言したことにより起こった戦争。ナイジェリア内戦とも呼ぶ。」(ウィキペディアより)


図書館に貸出延長を申請して、毎日少しずつ読んでいた本、読み終えました。
この四週間弱、わたしは「彼ら」といつも一緒にいた。時には息をつめて、時には顔をそむけたくもなって・・・
そして、読みながら、何度も表紙の絵を見直した。
美しい女性の後ろ姿が見える。翻る黄色いドレスがひときわ目につく。黄色いドレスが茶色の地平線の彼方に駆け去ろうとしている。
黄色いドレスの女性は太陽だ。半分上りかけながら、上りきらないうちに沈んでしまったビアフラだ。
同時に、この後ろ姿は、この本の登場人物であるオランナにも見えたし、カイネネにも見えた。


複数の異民族が暮らす国で、言語も宗教も違う。世代間・都市部と農村の文化の違いもある。
新しい価値観や古くからのならわし、伝統、そこに欧米の思惑なども混ぜこせになっている国、ナイジェリア。
目眩がしそう。わたしはナイジェリアという国をまったく知らなかった。
双子の姉妹オランナとカイネネ、オランナのパートナー(やがて夫)オデニボ、カイネネの婚約者リチャード(イギリス人)。そこに彼らをとりまく家族や友人たちがいて、それぞれの人生の物語が始まる。


印象に残っているのは、オデニボの母のメイド(?)アマラという女性である。彼女に起こったこと(彼女が受け入れたこと)にショックを受けた。それは、この国では、普通に起こることだったのだろうか。
また、裕福な特権階級の娘オランナ自身、危ないところで、さらに高い階級の族長への貢物(親から!)にされかけたことも重ね、正直居心地が悪い。
一方、さまざまな家庭(そこそこ裕福な家庭)では、主人一家とハウスボーイやメイドたちとの主従関係の家庭的な温かさに驚いてもいます。


・・・これは、ナイジェリアに住む人たちの人生の、特別な物語であると同時に普遍的な物語になるはずだっただろう。
どきどきしたりはらはらしたり、時々腹を立てたり、勘ぐったり、悲しんだり・・・嬉しくない横やりに耐えたり、切れたり・・・
そうこうしながら、地道に生活を築きあげていく登場人物たちの明日が――この先には、あったはずだった。


だけど、戦争は、普通の人々の普通の生活に、忍び足で近づいてくる、生活の中に入り込んでくる。
初めは少しずつ、やがて、戦争だけが残って、生活なんてどこにも見当たらなくなってしまう。
続く空爆、難民、食糧難、飢餓、蔓延する病気、餓死、横行するレイプや搾取、無理やりの民兵の徴兵・・・
そして憎しみと虚無。
高邁な理想、硬い信念、美しい希望、友情が、狂気のうちにあっという間に崩れてしまう。
人間の虚飾の全てがはぎ取られていくようで、遠くにある大きな目に嘲笑われているようだ。
一方で、覆い隠されていた大切な小さな美しいものを取り戻すこともあるのだけれど、酷い状況でのそれはあまりにせつない。
人々は変わったのか。変わったのはうわべだけなのか。人間って何だろう。信じられるものは何だろう。
どん底であえぐように生き抜く人々がそれでもしがみつく勝利への希望がやるせない。
ただ見守るしかなかった。
彼らの生活の中に戦争が入り込んで、少しずつその領域を拡大していったように、わたしもまた本の中の悲惨さに慣れていく。
その異常な世界で、ただ生きていて、とそれだけを願う。


物語のあいまに、引用文が挟まる。第一の書、第二の書・・・
この戦争のさまを忠実に語る記録のようだ。記録に基づく深い考察の書でもあるようだ。
この引用文について、最後に、わかることがある――
半分上った黄色い太陽は上りきらずに沈んだ。
だけど、気が付いているだろうか。本物の太陽は、だれも重きを置かない場所から静かに上り始めたのだ。
この太陽は沈まない。静かで控えめで、小さいけれど力強い。そして、天空高くのぼり、ひときわ明るく輝く。