忘れられた花園(上下)

忘れられた花園 上

忘れられた花園 上

忘れられた花園 下

忘れられた花園 下


1900年ころ、1975年、2005年。
同時進行に進む三つの時代の物語は、訳者あとがきの言葉に従えばまさに「三つ編み構造」で、
そこに意味深長に現れるお伽噺が編み込まれていく。
作中のイライザが大切にしていたモーニング・ブローチに納められた一族の母たちの三つ編みのように。
その時代の主人公(?)たちの足跡を後の時代の人間が追いかけていく。まるで尻尾取りみたい。
次々に現れる、違う時代の違う物語の破片は、実は同じテーマを繰り返すひとつの楽曲のようでした。
読めば読むほどに、するすると謎は解ける。ほんとにおもしろいように。
だけど、謎は解けるが、解けた先は、さらに深い謎の入口でしかないのです。読めば読むほど物語の深奥に進んでいきます。
すっかり翻弄されました。翻弄されればされるほどおもしろく、めくるめくような読書の快感を堪能しました。


ところが・・・途中から、どうも知りたくない方向に物語が進むのではないか、と不安になってくるのです。
真実はもっと単純であっていい。コーンウォールの美しい風光のままに。だけど、そうならないような気がしてきます。
これは、悲劇というよりもっと痛ましい物語ではないだろうか。たまらない気持ちになりかけたのですが・・・


自分がどこから来てどのように育ってきたのか、どんな親のもとに、どんな系譜(おぼろげながらでも)に連なっているのか。
覚えていなくてもそういう事実の上にわたしは自分の人生を築いてきたのだ。
だけど、当たり前に思っていたものが全部まちがっていたとしたら? そして本当のことはまるっきりわからないとしたら?
どうなんだろう・・・
考えてみたこともない・・・
考える必要もなかった。
考えてみるまでもないくらい当たり前に思っていたそれがなくなってしまうということはどんなに恐ろしいことだろう。
しっかり立っていたはずの地面がそっくり消えてしまう感じだろうか。


ネルはこれまでの自分の根っこを否定され、自分がどこのだれだかわからない、ということを大人になって知るのです。
一夜にして、世界が変わってしまう。
カサンドラだって、別の形でネルと同じ思いを味わっていたのでした。
一夜にして信じていた世界が変わってしまう。
ネルにとって、そして、カサンドラにとって、この旅は、自分の世界を取り返す旅だったのかもしれない。
もう一度、いえ、前とは違う形で、前よりももっと強固な(でも柔軟性のある)世界を構築するための。
そして、それは成功したのだと思います。


そう思うのは、
二人とも謎を解こうとしたこと、その過程で、解こうとした謎よりもずっと大きな謎を、まったく思っていたのとは違う形でモノにしたのだから。
もし、ね。
普通のミステリのように、バズルのピースが全部収まるところにおさまることが最終的な目的になるとしたら、(確かにそれを最初は目指していたが)
それだけではこの旅は失敗だった、と思います。たぶん。
いや、そこそこの満足は得られただろうけど、それまでだったと思う。

カサンドラは微笑まずにはいられなかった。「これで謎は解けたわけね。ネルの母親は誰か。誰が船に置き去りにしたのか。イライザはどうなったか」 それとは別の謎も、カサンドラは解いていた。この謎をこれほど愛おしく感じるのはなぜなのか、塀に囲まれたこの庭で過ごすうちに自分自身の根っこが地中にどんどん伸びていくのはなぜなのかも。
わたしたちは、作中の登場人物たちが誰も知らないこと、到達し得なかった真実までもを知っている。
でも、登場人物たちがそれを知らないままに生涯を過ごしてしまったことを不憫に思う必要はないのだ、ということも知っている。
時代を超えて、手渡される約束のようなものもある。時代を超えて、満たされるものもあるのだ。
ずっと長い間・・・無理やりこじあけなくてもいい扉もきっとあるのだ。
見えないはずのものを、知らないはずのものを、何か別の目で見ていることもあるのだろう。
知らないけれども知っている。謎かけみたいだけれど、それが真実だ。(はっきり書けないのが歯がゆくもあるわけですが)
それだからこその充実に満たされています――