走れメロス

走れメロス (新潮文庫)走れメロス
太宰治
新潮文庫


『ダス・ゲマイネ』
『満願』
富嶽百景
『女生徒』
『駆け込み訴え』
走れメロス
『東京八景』
『帰去来』
『故郷』

『女生徒』が入っていたのがうれしかったな。
と、思うとともに、初めて読んだ『女生徒』が短編集の中のひとつではなくて、
あの写真とのコラボ、たった一作だけで一冊になったあの本だったのがよかった、と思いました。(感想こちら
短編集、短編を続けて読むと、(私の場合)一作一作の印象がどうにも薄くなってしまって・・・。
もし、『女生徒』と、短編集の中の一冊として出会っていたら、ここまで強い印象は残らなかったかもしれないです。
時間をかけて、ひとつひとつゆっくり読むのが、短編集に相応しい読み方かもしれません。
そうしたら、長いこと楽しめる贅沢な本、ですね。
といいつつ、この本の八作、次々続けて読んでしまったのでしたが。


この本に取り込まれている作品は、どれもあまりに有名で、
読んだことはないけれど、タイトルだけは聞いたことのあるものが多かった。
だいたい私にとって太宰治なんて名前は、
中高のころ、テストのために覚える単語の一つに過ぎなかったし、その作品名もそうだったのです。
何について書かれた作品で、丸暗記すべき有名なフレーズはこれ、という具合。
ああ、当たり前のことだけれど、文学を味わうことと「知識」は別物。
さらに、「知っているつもり」というおごりが、味わうためには、どんなに障害になることか。


富嶽百景』を読まずに「富士には、月見草がよく似合う」という言葉を知っていたって、
そこから思い浮かべる寸切りの情景になんの意味があっただろうか。
名言と言われるほどのせっかくの表現を、そこだけ切り取ったために、何の意味もなくして、
太宰治いわく「あまりのおあつらえむきの富士」に変えてしまったのだ。
前後の脈絡から離れた名言は、
もしかしたら、名言、と言われた瞬間に、本来持っていた生き生きとした命を失ってしまうかもしれない、と感じたのでした。
といいつつ、本のなかの素敵なフレーズを拾いだして、集めるのが好きなわたしなのですが、
そのフレーズを思いだしたときに、
物語全体のイメージや、最初に読んだ時の気持ちなどをふわりと思い出せるほど、本を大切に読めたらいいな、と思います。


富嶽百景』で好きなのは、
眺望が美しいはずのパノラマ台で、天気が悪くて富士が見られなかったとき、茶店の老婆が大きな富士の写真を出してきて、
「ちょうど、この辺に、このとおりに、こんなに大きく、こんなにはっきり、このとおりに見えます」と高く掲げてくれたこと。
それを見た作者の「いい富士を見た」がいいなあ、と思ったのでした。
そして、この一景もまた百景のなかのひとつに数えられているのだなあ、ということ。
百景は、ステレオタイプではない。
それぞれの人にとって、それぞれの出来事や思いなどとともに、ドラマを伴ってくっきりとうかびあがる光景。
たぶん他の人には用のない光景であるかもしれない、個人的な光景であればあるほど、輝かしいような気さえしてきます。


『駆け込み訴え』が、この短編集のなかで一番印象に残りました。
読了したばかりの『斜陽』のかず子を思い出していました。
かず子の胸に宿ったへびは、この物語のユダが主に対して感じていたものとよく似ているように思えました。
憧れて焦がれて、でも決して近づくことができない。
それは、憧れているその光の本当の輝きの意味も、どこからさす光なのかも分かり得ない。
だって自分はその光とはまるっきり別の次元にいるのだもの。永遠に手を触れることはできない。あまりに悲しい。