女生徒

女生徒女生徒
太宰治
佐内正史 写真
作品社


この女生徒、息災なら現在100歳近いはずだ、と思うと驚く・・・
いやいや、何を言っているんだ、わたしは。この女生徒は創造物である!
信じられないけど、1909年生まれの男性(!)に生み出されたのだ。
太宰治
太宰治、読んでいません。
中学(?)の時、教科書に『走れメロス』が出ていました。それも読んだといえるなら、それだけです。
恥ずかしいけど、この本が初読みの太宰治でした。
こんな瑞々しい(生々しい)思春期の少女の感性や思いを、
女のわたしでさえびっくりするほどの新鮮で的確な言葉で、男性である太宰治どうして書けるのだろうか。
天才なんだろうか^^


一人の少女(中学生くらいかと思います)の一日。
朝起きてから夜寝付くまでの行動と思いとを日記ふうに綴った文章です。
特別なことがあるわけではない、ごくごく普通の一日。他愛ない日常。
100年近く前のある日、こんな少女がいた。そんなに昔なのだ、ということが不思議。
だって、この子、今だっていそう。すぐそばにいそう。これからもきっといる。
少し(かなり)前のわたしであり、私の友人であり、娘であり、もしかしたらいつか出会うかもしれない私の孫かもしれない。


朝目が覚めるときの気持ちを、重ね箱を次々にあけていく様子や、
でんぷんが沈殿していく様子にたとえているところ、最初から魅了されました。
なつかしいようなまぶしいような、とっても新鮮な思いで、ああ、私、この本、きっと好きだ、と思ったのでした。
そして、「朝は灰色、いつもいつも同じ。一ばん虚無だ」ときて、完全にノックアウトでした。


二匹の飼い犬のうち、一匹は足に障害がある。見栄えもよくない。この犬のことを彼女はかわいそうだ、という。
かわいそうだから、わざとこいつを無視する。意地悪する。
こいつの前で、もう一匹のほうをことさらにかわいがってみたりする。
「…早く山の中にでも行きなさい。おまえは誰にもかわいがられないのだから、早く死ねばいい」と思ったりする。
ちらっと『富士日記』(武田百合子)の 「ポコ、早く土の中で腐っておしまい。」を思いだしている。
ああ、この犬は、彼女自身だ。さびしい自分・かわいそうな自分を持て余して、自分で傷つけている。


・・・でも、もちろんそれだけのはずがない。さびしいだけのはずが。
彼女の心は複雑。たくさんの気持ちの、これはほんの一部。
綺麗なものが好きで、お道具を包んだ美しい風呂敷は、誰かに見てもらいたいと思うし、
友だちとの怖い話にきゃあきゃあ言って、
厚化粧のおばさんが汚いような気がしてすべてが厭になったり、
髪型の気に入り加減で愉快にも不愉快にもすぐなる、
そんな女生徒。


やわらかく、かたく、明るく、暗く、むずかしく、びっくりするほど大人かと思えば子どもっぽくて、驚くほどの達観に舌をまく・・・
彼女の思いは走馬灯のようにくるくると移り変わり、少しもじっとしていない。
このとりとめのなさに振り回されつつ、ついていくのはなんと楽しい。
思いがけない言葉、思いがけない表情に、はっとする。
そうくるの?と思う。
次の言葉が予想できない。そして楽しみ。
いずれにしてもなんという瑞々しさだろう。
「つい今しがたの浮き浮きした気持ちがコトンと音をたてて消えて、ぎゅっとまじめになってしまった」なんて言う。
そのうえ、「美しく生きたいと思います」なんて言葉が出てくればもう涙。


彼女考案の「ロココ料理」・・・美しい色どりを考えながら、食材を皿に盛っていく場面を読みながら、
思いだすのは『真珠の耳飾りの少女』(トレイシー・シュヴァリエ)の冒頭部分。
主人公の少女が切った野菜を彩りを考えながら皿の上に置いていく場面に似ている。
女生徒は、こうやって、見た目華やかで、さしておいしくない皿を並べながら思うのです。
「美しさに、内容なんてあってたまるものか。純粋な美しさは、いつも無意味で、無道徳だ」と。
はあ、ため息だ。
(それにしても、昔の少女はよく働いたよなあ。今のわたしよりずっと手際がよさそうだ)


なくなった父への思慕、移り変わっていく家庭の不安、寂しさ、み
んな一緒で屈託なかった過去を懐かしむ心は、そのまま、成長していく自分、アンバランスな自分を持て余してのやるせなさ。
体も心も大きく変わっていく不安のあらわれでもあるだろうか。
「大人になりきるまでの、この長い厭な期間を、どうして暮らしていったらいいのだろう」には、
せつないくらいに懐かしく、面映ゆく、愛おしくて、
彼女が惨めな愛犬をいじめたように、「ああ、あんたはそうやって大きくなるんだよ、放っておくしかないんだよ」と言いたくなるのです。


1ページ(1見返し)おきに、文章と写真とが交互に現れる作りです。
写真は現在の風景。
現在の・・・たぶん毎日通る道の、あまりに見なれすぎていて、あまりに平凡にすぎるように思い、
ちゃんと見ることさえ辞めてしまった、あの路傍、あの小路、あのアパートの窓やフェンス、踏切の舗装、校庭の隅、空に小さな飛行機・・・
そんなものが切りとられてここにおかれると、なんともノスタルジックな気持ちになる。
忘れていた光景のなかに自分がかえっていくような。
最初は、ごめんなさい、文章を寸断されるような気がして、この写真が邪魔だと思ったのです。
だけど、だんだん、なじんでくる。
なじんでみれば、80年前のあの少女が、時を超えて、現在のこのなんでもない光景のなかにおさまってくるのを感じる。
この光景が彼女のための光景のように感じはじめている。この写真がとても好きだと思う。
そう、この少女は、どこにでもいるのです。そして、この風景も、どこにでもあるのです。時間を超えて混ざり合う。
知らず、今朝、あの子とあそこの角ですれちがっていたかもしれない。
さっき、裏を通って行ったかもしれない。