ハロウィーンの魔法

ハロウィーンの魔法 (チア・ブックス)ハロウィーンの魔法 (チア・ブックス)
ルーマ・ゴッデン
渡辺南都子 訳
偕成社


ハロウィーンから始まりハロウィーンで終わる物語。
舞台はスコットランドで、スコットランドハロウィーンの様子が興味深いです。
わたしたちが知っているかぼちゃのランタンはここでは登場しません。
かわりに活躍するのがカブ。カブをくりぬいて作ったランタンがどこの家の門口にも置かれるのだそうです。
夜、そんな家々の並びを遠くから見たらさぞきれいでしょうね。
また、子どもたちが思い思いの扮装をして家々をまわり、お菓子をもらうのですが、
そのときの問答(?)などもちょっと変わっているし、
ハロウィーンに食べる独特のごちそう(シャンパーズ、タフィーアップルなど)も独特です。
ハロウィーンの歌なども。
クリスマスの祝い方がそうであるように、
ハロウィーンの祝い方も、国や地方によって、少しずつ違っているのだなあ、とおもしろかったです。


ハロウィーンに起こった魔法の物語ですが、この魔法は、目に見える魔法ではありません。
マフェットは「いい魔女? そんなものいないわよ」と言うけれど、
でもほんとにいい魔女の魔法、そして、目に見える魔法よりずっと素晴らしい魔法でした。


「魔法」を使ったのは、「なにをやってもへまばかり」で「のろまでぶきっちょ」のセりーナ、
「どこの馬の骨ともわからない、鼻水たらした」少年ティム、
そして、「だめなポニー」のハギス。
つまり、そろって「ダメな子」たちなのでした。
彼らが、そろって、しみったれで頑固者のマックじいさんを変えていく、そして村中を変えていく。
とびきりの幸せの魔法で・・・
というとふわふわした夢物語みたいに聞こえますが、そんなものではありません。
シビアな現実を無視した夢が「よい夢」であるはずないと思います。
どの人たちも、生活の幅を感じさせ、リアルです。
いなかの小さな社会の厭らしさも素晴らしさも、「そうなんだよね」と実感を持って頷いてしまう。
そんな生き生きした人々の中で、子どもと老人の心が少しずつ通っていく過程やそれを見守る親たちの姿が好きです。


子どもたちは、最初から何かができるとは思っていなかったし、こんな結果を望んでいたわけでもなかった。
ただ、そのときどきで、やらなければならないことは何か、ということを考える頭があったということ。
(たとえ拙く、失敗したりまわりを心配させたり、危険なめにあったりしたとしても)
それから、やりかけたことをやりとげる勇気を持っていたこと、かな。


「家にいると、セリーナはへまばかりしていた。
それはたぶん、みんながセリーナにああしなさい、こうしなさいと命令するからだった」との言葉。
命令するのが自分自身であれば、もっといろいろなことがうまくいくのかもしれない。
大人の言葉って、不用意ですよね、そして、無意識なんです。そのせいで子どもたちを追いこんでいることもあるのですよね。
でも当事者にはそれがわからないのです。
そしてそのままわからないまま忘れてしまう、だって無意識なんだもの。
善意の大人たちだからこその罪もあるなあ、と思いました。
ごめんね、子どもたち。


それから、村八分の怖さ。
村の総意が通らない人物を、村八分にする。
相手が悪いのだからそういう目にあわされても当然だ、と思ってしまう多数意見の怖さ。「みんないっしょ」の怖さ。
さらに、その相手と、今まで通りの付き合い方を続けようとする人たちまでも排除しようとする。
悪意の揃い踏みがとっても気になりました。
先日「ブロデックの報告書」を読んで以来、
「みんないっしょ」の人たちと、「みんな」からはみだしてしまった人の理不尽な運命が、やたら目につくようになっています。
力を合わせる、とか協力し合う、って素晴らしいけれど、ときにはそれが暴力以上の暴力になることもあるのです。
しかもその暴力は、だれも罰する人がいないのです。救いがないのがとても怖い。


けれども、そんな八方塞がりを打開するのが、
どこまでも、子どもたち(しかも周りからは匙を投げられているような)の善意なのだ、ということがなんとも小気味いいです。
ラスト、とっても素敵でした。最高の気分でした。大満足。


「マフェットとセリーナが学校のカバンを用意した最初の朝、夏はまだかすかに生き残っていた。でも、すぐに秋の色にそめかわった。・・・」
から始まる秋が、どんどん深まっていく雰囲気、夜が長くなり、ハロウィーンが近づいていく季節の移り変わりが、
美しい文章の端々から感じられ、それも味わい深かったです。