移動祝祭日

移動祝祭日 (新潮文庫)移動祝祭日
アーネスト・へミングウェイ
高見浩 訳
新潮文庫


1921年〜26年。パリで暮らした22歳〜26歳、文学修行中だったころを振り返るヘミングウェイ本人の回想記です。
文章からまぶしい光があふれてくるようで、その光を浴びるようにして読みました。
老いヘミングウェイにとって、どんなに輝かしい思い出であったか偲ばれます。
ヘミングウェイというと、硬派(?)な作家というイメージがあるのですが、これはちがいます。
せつないような甘美な香り。こういう回想記は大好きです。
人の幸福は、富や名声ではない・・・多くの夢を持ち、その夢に向かって歩いている途上にある、
そのときが一番光輝いているときなんだ、と実感します。
若く無名で貧乏で、でも、若々しい夢と友情、妻(最初の妻)への愛にあふれた日々。
そして、日々の生活のこまごましたことへの楽しみや悦びにあふれています。
何よりも、彼は作家として、本当に作家として、「売れる・売れない」を越えて、
書くことを心から愛していたのだということが伝わってくるのでした。
それは、「移動祝祭日」というタイトルにもこめられている。
若い日々は、そのまま毎日が祝日のよう。


作家やその周りの人々との交友。
素敵なのは書店兼図書室のシェイクスピア書店。
店主シルヴィア・ビーチの懐の深さ。そこに集う人々。夢を語る青年たちの青くまぶしい姿。


友である作家(の卵)たちについて語る言葉はかなり辛辣。もう、何さまだ、あなたは、という感じ。
ことに、スコット・フィッツジェラルドについては、ぼろくそ言っている。
フィッツジェラルドがこの通りの人だったら、およそ付き合いたくない、とんでもない奴でしかないのですが、
ここまで徹底的にけなしてしまうと、むしろ戯画化されて、愛すべき男、というイメージが浮かび上がってくるのです。
彼なりの方法で(周囲とは相いれなくても)誠実であったのだろう、責任感もあったのだろう、人生は苦しかっただろう、
と思うのです。
そして、絶対読みたい、「グレート・ギャッピー」! と思ったのでした。
だってね、
「・・・最後まで読み終わったとき、私は覚ったのだった。スコットが何をしようと、どんな振る舞いをしようと、それは一種の病気のようなものと心得て、できる限り彼の役に立ち、彼の良き友になるよう心がけなければならない、と。・・・もし彼が『グレート・ギャッピー』のような傑作を書けるのなら、それを上回る作品だって書けるにちがいない」
なんて、書かれたら。


印象的なフィッツジェラルドとのドライブ旅行(笑) 
ワインをラッパ飲みしながら運転って・・・びっくりだけど、そういう時代なんだねえ。恐ろしい呑んべたちめ。


ラストはせつなかった。
この美しい日々に、ヘミングウェイは自らの手で幕を引く。その後も日々は続くけれど、それは第二幕になるわけで、
一幕めのあの甘美な日々は永遠に幕の向こうに封じ込められることになる。
自ら引いた幕への、悔悛だろうか、憧憬だろうか。二度と帰らない輝かしさが、まぶしく、かなしい。愛おしい