ゲド戦記4 帰還

帰還―ゲド戦記最後の書 (ゲド戦記 (最後の書))帰還―ゲド戦記最後の書 (ゲド戦記 (最後の書))
アーシュラ・K・ル=グウィン
清水真砂子 訳
岩波書店


二巻読了とともにテナーと別れたあの日から20年近くが過ぎていました。
20年後のテナーがわたしは好きです。
類まれな才能を持ち、周りの人々のさまざまな期待を担い、生涯の栄光を約束されながら、
あえて縛られず、むしろそれらすべてをさっさと手離し、自分らしい生き方を選び、世俗的な世界に身を置いて、地道にもくもくと、
でも誇り高く胸を張って生きてきたテナーがとても好きです。
そして、わたしがこの本で一番好きな場面は、炉辺で、テナーが手仕事をしながら、テルーにお話を聞かせる場面なのです。


沈黙のオジオンの、大きな言葉と課題を残しながらの静かで満ち足りた最期は、ゲドの帰還へと繋がれます。
テナーの元にもどってきたゲドの姿は、わたしの知っていたゲドではありませんでした。
全ての力を出し切って「からっぽになってしまった」という彼の姿に、
企業の第一線でバリバリと働いてきた企業戦士の引退後の姿を重ねていました。
お疲れ様、というねぎらいの言葉を受け入れるにはまだ時間がかかる。
彼の「帰還」は生まれ直しでもありました。
生まれ直し、もう一度生きるために、魔法使いであったゲドと魔法使いではないゲドをしっかり合体させる必要がありました。
影と光がひとつになったように。
テナーのもとで、というのも意味深いです。
テナー自身が生まれなおし、生き直しを成し遂げているからです。
(ゲドが生き直すためにテナーの存在が必要だったのに対して、
テナーはゲドやオジオンから離れて独り立ちすることで成し遂げてたところもあっぱれです。)
魔法使いのゲドも、大巫女であったテナーも、人間としては半分でしかなかったのです。
ロークには女はいない、女は賢人にはなれない、女を迎え入れることのない魔法使いの世界。
そして、女しかいないアチュアンの巫女たちの世界。


男であること(女であること)、全たき人となるための冒険が語られますが、
今までの冒険に比べてなんて地味で、なんて暗く寂しい道なのか、と思いました。
魔法やまじない、竜も表れますが、ファンタジーというよりリアリティ、より地に足の着いた物語になっていました。


ゲドとテナーの間には、またテナーとコケばばの間にはたくさんの会話が交わされ、たくさんの質問が投げかけられました。
答えはありません。
そうそう簡単に答えられる問題ではないのです。
フェミニズムを軸として、虐待、自由の意味や、個人と社会の係わり合い、などなど・・・
抽象的な言葉が使われてもいますが、どれも現代のわたしたちにより密着したテーマであった、と思います。


ラストシーンの爽やかさに、またわたしは「お疲れ様」という言葉を呑み込みます。
生まれなおし新しい命を生きるゲドとその家族を祝福したい。
「なぜわたしたちはこんなことをするんだろう」とつぶやくゲドに、
わたしたちはきっとだれもがそうつぶやきながら、自分のできることをこなしながら一歩一歩歩いていくしかないのだろう、と思うのです。
魔法があろうがなかろうが、何に優れ、何が欠けていようが、ありのまま、そのままの自分であることが、大きな可能性であると信じて。


この本の原題は「テハヌー」です。
ゲドの帰還の物語は、テハヌーの旅立ちの物語でもあります。
これが最後の書になるはずの物語だそうですが、その後のテハヌーの旅をわたしは知りたい。
竜のことばも、なぜ、この地にテハヌーが現れたのかも、知りたい。ロークの賢人の「ゴントの女」という言葉の意味も知りたい。
この巻がこのまま最後の書にならなくてよかった。
次の物語を書いてくれてありがとう。楽しみに続きを読んでいきたいと思っています。