ラピスラズリ

ラピスラズリラピスラズリ
山尾悠子
国書刊行会
★★★★


初めて読んだ山尾悠子さん。幻想的で、なんという美しい表現に満ちた文章だろう。
美しい文章で語られる幻想的な世界には、ひっそりと目に見えない恐怖がつきまとっている。
その恐怖は確かにあるのだけれど、読者であるわたしたちにはちらっとそのわずかばかりの片隅を見せながら、封印されたまま。
恐怖が存在するからこその美しさがここはある。
そして、同時に、それは回避できないこと、または起こってしまったこととして、諦めて受け入れられてもいる。
耽美で、そこはかとなく滅びの予感が漂う不思議な世界。


同じ世界観の中に描かれる5つの連作(?)短編。
冬眠者と呼ばれる不思議な一族がいる。この一族と普通の人々との関係、齟齬。
そして、彼らのまわりには人形たちがいる。
この人形たちが、冬眠者たちに何か影響を与えているのかな。どこか滅びの予兆のようなものがある。
そして、性別のはっきりしないゴースト。
反乱、伝染病、何だかわからない危機・・・どの物語にも死への恐怖がつきまとう。
そして、どの物語にも独特の染入るような悲しみがある。


どの物語も、決して時系列に沿って描かれることはないし、何が、なぜ、どのように起こったか知らせてもくれない。
どの物語も関連があるはずなのに、無理にそれをわからせるつもりは毛頭ない、というわけ。
わたしたちに与えられる情報はほんの少しだけ。そのほんの少しの情報でがまんするしかないのです。
全体像を掴むにはあまりにも乏しい情報で、一体何が起こっているかも定かではないのですが、たぶん、そういうことはどうでもいいことなのでしょう。
うつらうつらと寝ては醒めて、寝ては醒めて、そんなふうにして切れ切れの夢の続きを見ているような気がします。
何が起こっているか、よりも、この世界のこの時間の空気にこもる匂いや人々の声に聞き入ることの方が大事なのかもしれません。


5つの短編の一番最初の「銅版」。
6枚の絵のタイトルを見せられて、語り手である性別のわからない「わたし」に出会い、その後の物語のなかでこの絵の全体像を物語でさっと見せられる。
続く4つの物語の水先案内の役割も果たす作品です。
でも、その六枚がちゃんと繋がるわけではないし、この小さな物語のなかにもたくさんの謎が詰まっているのです。
この「わたし」って何?・・・続けて読んでいるうちにわかるのだろうか。
「わたし」(もしかしたらかつて「わたし」だったもの?)らしきものには遭遇するのですが・・・
しかし、なんといってもこの美しく幻想的な文章に酔い、読んでいることがすでに快感。


続く四つのうち、なんといってももっともページ数を割いて語られる「竈の秋」の妖しい絢爛豪華さ、ひそむ毒にぞくぞくしてしまうのです。
山尾悠子の「ラピスラズリ」と言ったとき、わたしは、まず、この「竈の秋」の雰囲気を思い浮かべるでしょう。
中世風の塔と渡り廊下のある貴族の館と、そこに潜む人間と人間以外のものを。
そして、ここ三話目に至って、ようやくこの本の読み方がわかってきました。
ええ、理解するのを放棄したのです(笑) ただ、感じようと。


一番印象的な物語は「竈の秋」ですが、忘れられない場面は、四作目「トビアス」の中にありました。
あのドアの前の一場面です。その素直なひたむきさがもたらしたものが、切なくて、やるせなくて・・・


一枚一枚の絵の美しさを心ゆくまで味わい、その奥行きを想像する。
悲しみも恐れも美しさを構成するための一要素のよう。そして、深い静けさに包まれる。