カレーソーセージをめぐるレーナの物語

カレーソーセージをめぐるレーナの物語 (Modern & Classic)カレーソーセージをめぐるレーナの物語 (Modern & Classic)
ウーヴェ・ティム
河出書房新社
★★★★


ドイツではかなりポピュラーな食べ物だというカレーソーセージがいつどのようにして誕生したのか。いろいろな説があるが、「僕」は、小さな頃ブリュッカー夫人の屋台で食べたカレーソーセージこそが本家本元のカレーソーセージであり、ブリュッカー夫人がカレーソーセージの発案者である、と信じている。
今では老人ホームに住み、盲目で編み物をしているブリュッカー夫人を数度にわたって「僕」は訪ね、どのようにしてカレーソーセージが生まれたかの物語を聞きます。

第二次大戦下、敗戦の少し前のドイツ。
ある日、一人暮らしのレーナ・ブリュッカーは、前線に向かう途中の若い兵士(自分の子どもほども年が違う)ブレーマーと出会い、関係を持ち、そのまま、脱走兵として、彼をアパートに匿い続ける。
妻子がいることをレーナに隠し続けるブレーマーと、それを密かに知りながら、彼を失うことを恐れて戦争が終わったことを隠し続けるレーナ。
これを恋愛といっていいかどうかわからないけど・・・
レーナの感情の襞を、毎日毎日の雑事の間から読んでいきます。
無味乾燥な日々に添える花のような賑わい、良く耐えた自分へのご褒美のような喜び、だったのでしょうか。あまやかな秘密。それらを失うことへのためらい、そして、憎しみ、嫉妬、さげすみ、後ろめたさ・・・やがて、ずっとずっと途切れがちに持ち続けるであろう感情、後悔と切ないような懐かしさと。
それからカレーソーセージの冒険があって、「その後」があるのです。一瞬の「その後」が印象深いこと。この一瞬がよかった。何一つ言葉を添えないこの一瞬。その余韻がずっとずっと残ります。
レーナの人生(地味な人生です)を思うとき、若いブレーマーや彼女の夫がなんと薄っぺらくみえることか。

密告と猜疑心、おびえが支配するナチ政権からの解放と、虚脱。
戦争が終わって新聞の記事で、彼女は強制収容所の実態を知ります。そういう場所がほんとうにあったのだということに愕然とするくだりは印象的です。
何よりも彼女自身の喪失と苦い後悔があります。そんな中でのカレーソーセージ。

したたか、といえば、「僕」は、ブリュッカー夫人(レーナ)のためにトルテを持って七回も老人ホームを訪れることになるのです。
引き伸ばす引き伸ばす。編み棒を動かしながらのブリュッカー夫人の物語はあっちへとびこっちへ飛び、長くて、なかなか肝腎なカレーソーセージの話は出てこないのです。
カレーソーセージが出てくるのは後半、どころかほとんど終わりのほう。
カレーソーセージが生まれたきっかけは簡単で、最初から彼女が言っていたように「つまずいた」からなのです(笑)
彼女が初めてのカレー・ソーセージを作っている間に、部屋の中に満たされる匂い。
そこから立ち上るのは、嘗ての束の間の恋人の思い出――幸福な日々。豊穣の日々。
波打つ金髪、豊満な胸を持ちながら、もうそろそろ短いスカートははけなくなる、と思い始めていたあのころ。日々失われていくものを自覚し、半ばあきらめてもいるレーナにとって、ブレーマーは、嘗て彼女が持っていた輝きの象徴でもあったのです。
彼女のカレーソーセージを初めて賞味したお客さんが辛い朝の娼婦たちだった、というのも、なんだかわかるような気がしました。レーナが感じたのとよく似たものを彼女達も感じていたはず。

「僕」にカレーソーセージの話をする、ということは、カレーソーセージから立ち上る匂いにこもった思い出を、彼女の人生を、誰にも語らなかった秘密を語ることでした。
そして、あのすばらしい編みこみセーター。晩年の彼女にはもはや決して見ることができない平和で美しい模様の風景。緻密で細やかで、その図案は大胆。語りながら、あの一目一目の中に、彼女の人生を、編みこんでいたのでした。編みこみ模様の中にもカレーソーセージの物語があるのでした。
あみ目を数え拾いながら語ったカレーソーセージの(そしてレーナ自身の)物語の全容がこのセーターだとしたら、あっぱれな人生、と言えるかもしれないのです。