ルウとおじいちゃん

ルウとおじいちゃんルウとおじいちゃん
クレール・クレマン
藤本優子 訳
講談社
★★★★


>お日さまが、ゆっくりと草原をおりていく。
長い肢、すらりと伸びた首の
あざやかな色の女王たちが、遠くからやってくる
ゆらゆらと歩きながら夢を見ている
「おじいちゃんは詩人だからねえ」とルウのおばあちゃんは言う。でも、その詩は紙の上に書かれるのではなくて、おじいちゃんとともに過ごした人だけが知っている、そして、豊かにイメージを描ける人だけに感じることができる、そんな詩人なのだと思います。
でも、おばあちゃんが急死し、おじいちゃんは変わってしまった。泣く事もできず、まわりの人は「おじいちゃんの心は死んでしまった」と言った。仕事を持っているママは家でおじいちゃんの世話をすることができないので、ホームへ入れることを決めます。
おじいいちゃんをホームになんかやらない。ホームに入ったらおじいちゃんはきっともとにはもどらない。なぜみんなおじちゃんを待ってはくれないのだろう――ルウはおじいちゃんを誘拐します。

悲しみ。
自分の気持ちに折り合いをつけ、悲しみと共存しながら、喪失感を胸にしまいながらなお新しい毎日を一歩一歩歩いていく勇気をとりもどすにはとてもたくさんの時間が必要なのだと思います。
時間がかかることもあります。時間をかけてもどうにもならないことだってあります。あまりにめまぐるしく忙しすぎる現代では、待つことがむずかしくなってしまっている。
若い世代は、生きるのにせいいっぱいで余裕がないこともあります。
施設もまた選択肢のひとつ、ただ最良の選択肢かどうか考えて見たいのです。
老人に、まだまだ「冒険」を求める力があることを、気概があることを、信じられるなら・・・できればその力をとりもどすまで待ちたい。信じたい。力を貸してあげたい。
清潔で合理的で物質的な快適さよりももっともっと大切なものもあるかもしれない、と思いたい。
スガンさんのやぎの話を引きながらのルウの学校の国語の授業、印象に残っています。

>人は誰かを愛すると、そのひとにできるだけ長く生きてもらいたいと願います。でも、たとえ愛しているからといって、そのひとの意志に反して、望まない生きかたを強いる権利は、誰にもありません。そんなことをすれば、それは奴隷と同じです。
常識的な大人としては、ルウの大胆な行動はいちいちぎょっとさせられ、危なっかしくて見ていられないのですが、純粋にひたむきにおじいちゃんを思う心に打たれます。
また、一言もものを言わずされるがままになっているおじいちゃんに対して、幼児をあやすように接する家政婦のジャカディさんに対して、たとえ一言も喋らないおじいちゃんであっても敬意を持って接する大学生のヤスミナやホームレスのププたちが印象的でした。
(ヤスミナの国とフランスの老人を受け入れる考え方のちがい(社会問題でもあり)、ホームレスのププとラ・ムーシュの過去の話、パパとママの関係、おじいちゃんとおばあちゃんの夫婦の絆など・・・この物語の裾野にはとてもたくさんの物語がしまってあるように思います。)

我が家のご近所に、長きに渡る寝たきり生活から驚異の回復をとげ、元気に畑仕事にせいを出す80代のおばあちゃんがいます。ご本人の気力のすごさもさることながら、彼女を再び立ち上がらせたご家族の努力にも頭がさがるばかりです。
ルウのような幸運の女神は我が家にも(そして私の中にも)います。きっと。

>手をこの絵はがきにのせて、目をとじてごらん・・・。さあ、感じるだろう。太陽のぬくもりと、風がやさしくふれてくるのと、木々と花々のにおいを。
わたしは、ルウに勇気と希望をもらいました。ありがとう。