『悪童日記』  アゴタ・クリストフ 

余白が多く、すらすら読めそうな本なのに、読了するすまでには時間が掛かった。何度も途中でやめてしまおうかと思った。でもやめられなかった。
一章読むたびに吐気がするほど衝撃的だった。

舞台は第二次世界大戦末期から戦後にかけてのハンガリーの片田舎。ドイツ国境に隣接する村である。
ある母親が、10歳の双子の男の子たちを祖母の家に疎開させようと連れて来るところから物語は始まる。
双子を抱き寄せて接吻し、泣きながら帰って行く母親にむかって祖母は高笑いする。
「おまえたちに、生きるっていうのはどういうことか教えてやるわい」…この祖母は、夫殺し、文盲、吝嗇、おぞましいほど不潔な家に住み、村人たちから「魔女」と呼ばれる嫌われ者だった。
虐待に近い状況のなかで暮す双子は、生き残るための訓練を自らに施す。殴られ鞭打たれ、傷つけられることに慣れること。優しい言葉に心動かされないようにすること。
そして、自学する。屋根裏にある聖書を教材として、互いに作文を書き、添削しあう。 「作文の内容は真実でなければならない」「感情を定義する言葉は、非常に漠然としている。その種の言葉の使用は避け、真実の描写だけにとどめる」という条件のもとに書かれたのがこの本だということだ。

双子の名前は最後まで出てこない。どちらかを特定することもなく「ふたりのうちのひとり」と表現する。
この二人がまるで二つの体を所有するひとつの脳のような感じなのだ。
この本(二人の作文)にしても、二人が交互に書いたことになっているが、文体がそっくりで、まるで一人の人物がずっと続けて書いたようにしか見えない。

戦時中、戦後の混乱期、ということもあり、双子をめぐる状況は過酷そのものだ。そして、二人は短いあいだに、筋金入りの不良になっていく。顔色を変えずに人を殺し、家に火を放つ。
最後に出てきた母親が目の前で死ぬのを見ても動じない。彼女の墓から彼女の骸骨を掘り出し、磨き、ニスを塗り、針金でその骨をつなぎ、屋根裏の梁からぶらさげる。その首には小さな骸骨をぶら下げる。これは、母親と一緒に死んだ赤ちゃん――彼らの妹の遺体なのだ。

「不良」なんてものではない。「怪物」だ。感情を廃した文章に時にぞっとする。
だけど、それなのに、読んでいるうちに感じるのは、彼らは彼らなりの独特の倫理観のもとに行動しているということなのだ。とにかく生き抜くこと。助けが必要な人間にはできる範囲で助けを与える。
そうすべきだと判断した時に判断したとおりのことをする。相当に賢く、勤勉で、早熟だ。
顔色一つ変えず冷静に行動するが、その内面までそのとおり、というわけではない。彼らの感情は、行間に隠されている。
しかし、彼らは誰にも甘えない(自分自身にも)。そして怖れない。現実を冷静に見つめ、おそるべき知恵を発揮する。それは一種独特のすがすがしさと透明感を感じるほどだ。

それに対して、善良そうな顔をしながら、貧しく無力な(親のいない)子どもに性的虐待をしたりする村人達に吐気がする。ここまでここまで、醜く書けるものなのか、というくらいに醜かった。
感情を一切排除してただ事実だけを連ねた文章で、自分が体験したことや見たこと聞いたことをそのまま書いている。冷たく硬質な文章。これが読むほうにはたまらない。 …だけど、本当にそれほどまでに醜いのか、人は。 そうじゃない。非常時にも人間の道徳心は残っているのだ。ただ、この時代を生きぬく為にもがき苦しんだ人々の心が、行間に見えてくるのだ。感情を書き込まない文章であってもそれを感じさせる描写はあるのだ。

そして、自分の本音にうそをつかずしたたかに生き抜いたこの魔女のような祖母は、いっそすがすがしくないだろうか。この時代にひたすらに生き抜くことを子供らに教えたすごいおばあさんのような気がしてきた。

人をグロテスクに描けば描くほどに、かえって良心や悲しみのようなものが透けて見えてくるような気もする。
そして、人間をここまで怪物にしないではいられないのが戦争なのだろうか、とも思う…と安易に書くのも気が退けるけれど。

そしてあの唐突な最後のくだり。
……このあとこの二人はどうなるのだろう。この先のことが知りたい。