『ユタとふしぎな仲間たち』  三浦哲郎

ユタこと水島勇太は、おかあさんといっしょに、東京から東北の山間の村に引っ越してきた。東京育ちのもやしっ子で、なかなか村の子供達となじめなずにいる。
そんなとき、出会った不思議な9人の座敷童子ペドロたちに出会う。
ペドロたちの仲間になり、彼らに見守られながら、ユタは逞しい村の少年へと成長して行く・・・

素朴な詩情を感じる東北の村里の暮らしが素晴らしい。
9人の座敷童子たちが、人間臭くて、さっぱりとして、温かくて、しかも自由・・・とても魅力的。(ほんとにいるなら、きっと会ってみたい)
ユタ以外の人間はだれも見ることのできないペドロたちのおかげで起こるさまざまな事件は時にユーモラスで、爽快で、時にやるせなかったり・・・
お寺の鐘の音(薄紫の輪になって、空をすべる)に乗って空を飛ぶ場面はなんとも気持ちがいい。
マレークベロニカの絵本「ラチとらいおん」をふと思い出す。ほのぼのとした読後感。

だけど、座敷童子の生い立ち・・・
実は、もともと、大昔から何度も繰り返された大飢饉のとき、口減らしのために親によって間引きされ、死んだ子供の生まれ変わりだったのだ。
ひっそりと殺され、供養もされず、成仏することができない魂が化身した悲しい小さな妖怪たちなのだった。

しかし、このことにより、物語が暗くじめじめした感じになることはありません。むしろ、ほの暗くほの明るく、独特の温かさや郷愁のようなものを感じさせる。それは文章の美しさのせいかもしれないけれど。
そしてまた、それは、方言の力でもあるのかな、とも思いました。
ペドロたちが唱える「ワダワダ アゲロジャ ガジャ}(=ぼくだぼくだ、開けてくれよ、かあちゃんよ)に込められた、当たり前に生まれ育った人間の子への憧憬・・・
その土地の独自の歴史や日々の生活のくり返しの中から生まれてきた方言には、その土地の悲しみや喜び、怒りなどがこめられているように思います。
捨て子。間引き。という悲しい日本の歴史が込められているように思います。

この本のやさしさ、温かさは、土地の悲しみを内側にくるみこんだものなのだ、と思うのです。余韻の残るラストでした。