『光車よ、まわれ!』  天沢退二郎

ある雨の日、びしょぬれで教室に入ってきた同級生が黒い大男に見えた。
その日から、一郎のまわりでは不可解なことが起こり始める・・・

巻末の「作者おぼえがき」に、
「この物語は、一応、いわゆる本格ファンタジーをめざすものとして、善悪二元論を足場にしている」
とありました。

二元論。オモテの世界とウラの世界。光と影。生と死。・・・以前読んだスーザン・クーパーの「コーンウォールの聖杯」を思い出しました。あの本も光と影の戦いの物語でした。そして、子供達が、強大な力を得ることができる宝物を探す物語でした。
ちょっと似ているなあと思いました。

でも、この本は、かなり暗いです。ハラハラドキドキの連続で一気に読んでしまうおもしろさ、なのですが、じっとりと薄暗く、全篇通じて不安な空気が満ち満ちている感じ。

確かな世界、安心していられる世界・・・そういう世界観がぐらぐらしてきて、信じられるものがなくなってしまう不安、あげくには善悪(オモテとウラ)の境界までわからなくなる不安を感じるのでした。
そして、この暗がりがこの物語の魅力だと思うのです。(昔のNHKの少年ドラマシリーズの雰囲気思い出しました。)
だからこそ、最後に三つの光車がまわるところは圧巻でした。まるで生きているかのように、空中で燃え、光を放ち、一つに合わさる光車――

しかし、釈然としない物語でした。以前、みなさんの感想を読んでいたので、そういう不満を持つであろうことは予想していましたし、それでもなお、きっと随所に煌きがあり、魅力のある本に違いない(確かにそうでした)とは思っていました。
予想はしていましたが・・・たぶん、作者には明確なイメージがあるに違いないのに、一切の説明がないため、わたしにはさっぱり見えないのです。これってかなりもどかしいです。
さまざまな予期せぬできごとがおこるたび、こちらはとまどいますが、物語の中の子供達はすんなりと受け入れて、納得してがんがん進んでいくので、仕方なくついていくけれど・・・
一応の事件の解決はあっても、ウラでもオモテでもない緑服の連中が残っている。彼らは何者なのか、何が狙いなのかわからない。
敵になってしまった同級生や、ルミのおにいさんはどうなってしまったのでしょうね。

あ、今、ふいに思いました。水の悪魔と、得体の知れない緑服の連中、そして表の世界の住人。この三者が三つの光車に象徴されている?
そして、一つにあわさる、ということで、真っ当な世界になる? そういう意味? ちがうかなー。光と影はこの本でひとつになったけど、緑の連中はナゾだ、ますますナゾだ・・・意味は自分でみつけろと?

しかし、暗いのですが、なんともいえず、美しい文章に出会ったり、はっとするような不思議なイメージにであったり(水の中の世界が、実は乾いていて水がなかったり)・・・やはり魅力的な世界です。
忘れられない文章がいっぱいありました。

  >このあいだ図書館で読んだ本に、
   地上の植物はみな天の星の写しだ、花のかたちだけじゃなく、
   ま上から見おろすと、葉のつき方も星の形になっているのだ
   って書いてあったっけ。
   にんじんの切り口は太陽だな、
   とうもろこしをこうやってわぎりにしたのも太陽みたいだ。
   すると月は、レモンのわぎりか、
   いや、この大根の切り口の方が似ているぞ。 

      >この都心ニむかう電車はガラガラだ。
   窓の外はもうまっくらで、
   遠い地平線の方にときどきたくさんの白っぽい光のむれがあらわれ、
   まるで生きた星どもの巣というように、
   せりあがったりゆれたり、ぐっとさがったりしながら、
   うしろへうしろへめぐっていく。