『ジーンとともに 』 加藤幸子

梨木香歩さんの「ぐるりのこと」に、この「ジーンともに」からの引用文が載っていて、それがとても興味深かったので、全篇読みたいと思ったのがきっかけでした。

これは鳥の目で語られた物語(違うのもあるけど)ばかりを集めた短編集でした。

「主人公のいない場所」は十二のショートストーリー。
さまざまな土地に住む様々な年代、立場の人のある日常の情景を切り取る。
庭の草木、思い出の山河、風の音…平和な光景のなかに、かすかな風が吹き抜けると、そのあわいにぞくっとする風景を見せる。「えっ」と思うとそこまで。こちらは、悪い夢から今覚めたみたいに首を振る。
正直意味がわからないものもいくつかあった。「赤い山」の意味など・・・教えて、どういう意味なの、と言いたいような感じ。
すきなのは「木男のアトリエ」。だれもが「未完成品。ほとんど手付かずのまま」と言ったそのミズナラの木のこれ以上にないほどの生きた姿。寓話のような美しい一篇。

「渡鶴詩」(どう読んだらいいんだろう。「わたる・つる・し」で変換しました)
北緯38度の地に立つふたりの兵士と、空を渡る鶴の視点が、交互に描かれる。
兵役にしばられている兵士が夢見る憧れと、厳しくも自由に羽ばたく鶴たち。ふたつがやがて重なる。自由を失い希望が費えた兵士と鶴と。暗く寂しい話であった。

「雀遺文」
老いて止まっていた枝から下の水面に落ちる直前の雀が自分の一生を振り返る。
それは華やかな季節をなつかしむでもなく、体の自由がきかなくなってきたことを悲しむでもなく、ただ、このように生きたのだ。
そのことに悔いがあるとかないとかではなく、とにかく一切の感情を排除して・・・死の前にこのように、一生をさらう。眠る前に、その日にあったあれこれをただ、とじたまぶたの裏に描くように。

「アズマヤの情事」
しばらく前にNHKの「ふしぎ大自然」で、オーストラリアのアズマヤドリを観た。美しい姿だけれど、どこかしらコミカルで、オスがメスに求愛するためにとても凝ったアズマヤをつくること、ほおーっと思いつつ、妙におかしかった。
そのアズマヤドリのある時期の姿をアズマヤドリ自身が語る。テレビの前でボーっと見ていたその鳥の内側に入り込んだような気持ち。

ジーンとともに」
ある鳥の一生。
「作者による補遺」に、「有史以来一羽も捕獲あるいは標本として固定されていないというニジドリ」という記述がある。
13年ごとに目撃されているという不思議な鳥。
こんな不思議な鳥が本当にいるのだろうか。
物語の主人公のこの鳥は、孵化後、自分の中の4代前までの母鳥の記憶に従ってたったひとりで巣立ち、北の海辺から南の島へ渡る。そこで雄と番ったのちにその雄をくらいつくす。
その後、もとの地に戻り、産卵を終えると、すべての力を失い、あとは産卵場所からできるだけ離れた場所で死ぬ。
この鳥の一生に付き従うのがジーンという目に見えないともだち。ジーンは鳥のそばに、あるいは中にいて、さまざまな先祖の知恵を鳥に授けながら、励まし、ともに飛ぶ。
このジーンというのはなんだったのか。…ジーンというのは「遺伝子」を意味するらしい、とアマゾンのレビューで見てわかった。(この作者は余計なことは一切教えてくれない。)
命果てようとする鳥のそばでジーンが言った言葉。遺伝子は残酷なほど自分の任務に忠実だ。


鳥の目でわたしたちはしばし世界を見る。羽ばたいて気持ちよく飛び、飢える。自然に鳥である自分を感じられるなんとも細やか且つダイナミックな文章。
人間の目で見ていた鳥達を逆の立場にたってみると、こんなふうに見えるのかもしれない。そのおもしろさ。
だけど、本当は、甘えを否定した厳しい本だ。生きることの残酷さ、あまやかな夢やゆとりをさておいて、とにかくひたすらに生きる。行き着く先までその姿を追い続けた記録。
しかし、この本は、説明らしい言葉を一切省いている。主人公にとってあたりまえのことは、前後の事情を知ろうが知るまいが、おまえたち人間も当たり前と感じよ、といわんばかりに。

 


 難しかった。本当はちゃんと読めてない。