『ぐるりのこと』  梨木香歩

梨木香歩さんの「ぐるり」、つまり身のまわりの領域について語ったエッセイ。
今、自分が立っているこの場所のこの土の上、見渡せる場所と側にいる人のことから始まって、はるか遠く、思いのままに広がる梨木さんの「ぐるり」。
まるで、風が吹くように、旅先のトルコへ、時の事件へ、歴史のなかへ。一見ばらばらなように見えても、今いる場所にしっかり立っていて、またその立ち位置へ戻っていくから、どこまで飛んでもそれは梨木さんの「ぐるり」なのですね。
その深さ広さには驚くばかり。今更何を、と言う感じですが、つくづく聡明な人だなあと思います。

  >自らの内側にしっかりと根を張ること。中心から境界へ。
   境界から中心へ。
   ぐるりから汲み上げた世界の分子を、
   中心でゆっくり滋養に加工していく。 (p168)
さまざまな情報があふれ、激しく行き交い、また怒涛のように押し流そうとする今日という日々にあって、
自分の内面にいちいち照らし、まるで、自分の言葉なのかどうか反芻するようにゆっくり吟味して。
行きつ戻りつ、ひとつひとつ言葉を確かめながら。 言葉にならない思いにいらだち、いらいらしながら、言葉をさがして。 おろおろし、こすれあって、言いよどんで、言い直して、「しょうがないなあ」と自嘲して。
それはほとんど愚鈍にさえ見える。
梨木さんのつむぎだす言葉たち。

  そして、「ほんとうの言葉だけがのこってゆくのだ」と梨木さんは言う。「根っこのある言葉だけを吐く」と梨木さんは言う。
不器用に愚鈍につむぎだした「本当の言葉」は、ほとんど痛々しく切実なまでに研ぎ澄まされていくようです。

  >もっと深く、ひたひたと考えたい。
   生きていて出会う、様々なことを、一つ一つ丁寧に味わいたい。
 (p85)

それは、静かに深く沁みてくる、同時代を生きる人がくれた言葉。
本のなかで、よどみなく言葉が流れ出すと、つい気持ちよく流されてしまいそうになるけれど、でも、わたしは、心地よい言葉に酔い痴れていてはいけない、と思う。(そういうことを望んで書かれた本ではないですよね)
読むことで、言葉に呑み込まれないように。わたしもまた、たとえ狭くても、暗くても、このささやかなぐるりを見渡せる居場所に、流されずに立てるのか、立てないのか。
わたしの「ぐるり」は、小さな農村の、このささやかな家族のなかから始まっていくはず。
その先に、地域があり、遠く世界がある。
過去があって未来がある。
わたしの「ぐるり」はどこまでいけるのか。
そして、必ずこの場所にもどってくる。家族に。わたし自身に。
  >物語を語りたい。
   そこに人が存在する、その大地の由来を。 (p170)

拙くても、不器用でも、物語(実際筆をとるわけではなくても)を語るに足る大地に立っていたい、と思う。