『グリーン・ノウの煙突』  L・M・ボストン 

グリーン・ノウ シリーズ、2作目です。
イースター休暇で、グリーン・ノウに帰省したトーリーは、幻の子どもたち(つまり300年前の幽霊です!)トービー、アレクサンダー、リネットに会うことを期待しますが、彼らはいませんでした。彼らの絵がロンドンの展示会に出品され、もしかしたら、売ってしまうかもしれないことをオールドノウ夫人に告げられます。
厳しい財政事情を知り、150年前に失われたグリーンノウの宝石を捜すことをトーリーは決心します。トービーたちを取り戻すためにも。

この物語では、トーリーは、150年前の子どもたち、盲目のスーザンと黒人少年ジェイコブと出会います。一巻目とちがって、大ばあちゃんのお話を聞きながら、150年前の世界にまぎれこみ、自分自身が幽霊と思われながら、彼らに手を貸すのですが、このあたりが、なんとなく、アリソン・アトリーの「時の旅人」を彷彿とさせます。

大おばあちゃんが、暖炉の側で夜毎、150年前のキルトを手直ししながら、その一枚一枚の端切れから、その布(大抵だれかの服やエプロン)にまつわる物語を起こしていく、という構成が、ステキでした。
このキルト、見たくてたまりません。

炉辺で語るおばあちゃんのイメージは、作者ボストン夫人の姿と重なります。
60歳を過ぎてから物語を書き始めたボストン夫人。
一千年以上前のマナハウスの主であり、バラの栽培で有名なガーディナー、そして、趣味のパッチワークの腕は素人の域をこえている、と聞いたことがあります。

物語をほとんど忘れていたのですが、改めて再読して、カルミアさんの言われたこと、わかったような気がしました。
マリアやセフトンの愚かさは、病気かと思うほどですが、あまりにも一面的ですよね。姿が美しい以外に美点が描かれていないあたり、薄っぺらい感じもします。
ジェイコブの幸せ、についても、「下男」以外のありようがあっていいですよね。彼はかしこい子です。そして誠実で勇気ある子です。もっと広い世界に出て行ったらよかった。

休日の最後の日、庭で、子どもたちの姿が消えていき、あとに、声だけが残り、やがて、しんとしたなかで、鳥の声だけがうるさく聞こえてくる。この場面が好きです。

 >「おじょうさん、目が見えないけど、
  僕に見えないものを、ときどき見るんだね。」
目の見えないスーザンが感じる世界の豊かさが素晴らしかった。彼女にとって「目が見えない」ことは決して不幸ではない。
目が見える人よりずっとたくさんのものを見て感じて、その世界の確かさのなかにいるスーザンに、感動しました。
彼女はまさに、世界に愛されている人でした。

子どもの時みたいに、高い木にのぼりたくなってしまいました。