『まぼろしの子どもたち 』  ルーシー・M・ボストン 

「The Children of Green Knowe」
亀井俊介訳「グリーン・ノウの子どもたち」の別訳です。
先日読了した亀井俊介訳を側に置きながら、読みました。
作品の感想は、「グリーンノウの子どもたち」で書きましたので、それは無しにします。
やはりちょっと雰囲気が違っていました。
といっても、お話のムードそのものが変わってしまっているというのではなくて、 わたしが感じたのは、おもに、会話文に見る、登場人物のイメージでしょうか。
トリー(亀井訳ではトーリー)は、ほとんど変わりなし。でも、瀬田訳のほうが、話し方がスムーズで、ちょっと好き。

オールドノウ老夫人は、亀井訳の方が好き。
たとえば、トーリーに初めて会った時、トーリーに「なんて呼んだらいいの」と聞かれた時のおばあさんの返事。
亀井訳ではこうです。
  >「おばあちゃん、ね。
   もう一つうえの、大がついたおばあちゃんだろうと、
   その下の、大が付かないおばあちゃんだろうと、どうってことないでしょう。
   とにかくよくきてくれたわね。これから、楽しくなると思うわ」
瀬田訳は
  >「おばあさま、さ。
   一代や二代、どうってことあるかい! 
   とにかく、おまえがきてくれてうれしいよ。
   これからは、たのしくなるね。」
亀井訳のおばあさんには、腰の曲がった年寄りでありながら、若々しい気持ちを感じたのですが、瀬田訳では魔女のようなおばあさんを感じました。

それからボギスもちがいます。亀井訳のほうが親しげ。瀬田訳では慇懃にへりくだった感じです。少しだけ亀井訳のほうが好き。

たぶん、これは亀井訳を先に読んでいたので、こちらの本でイメージが出来てしまっていたので、瀬田訳に違和感を感じたのだと思います。逆だったら、きっと逆の感じになったと思います。とくにオールドノウ夫人がなにかしゃべるたびに「うーん、何かちがう」と感じていました。

それから、トリーが、ビルマの父から来た手紙を燃やした夜に見たクリスマスプレゼントの夢。
亀井訳では、
  >…中には、綿にくるまって、
   おもちゃ屋のびっくりおもちゃのところで売っているような、
   大きなプラスチックのトー(足のつま先)が二つ入っていた。
瀬田訳では、
  >なかには綿に包まって、
   大きなプラスチックのコイのおもちゃがあったのです。
   どこのおもちゃ屋でも買えるようなコイで…
になっていました。全然ちがう。不思議でした。

でも、もっともっと雰囲気が違うのかなと思ったらそうでもなかったです。ちょっとずつ違いを比べながら読むの、おもしろかったです。