『 私のアンネ・フランク』  松谷みよ子

ゆう子は13歳のお誕生日に、母・蕗子から日記帳と本「アンネの日記」を贈られます。
アンネという少女が実在したかどうかも知らないゆう子は、ただ、自分と同じ13歳、隠れ家に住んでいたらしいということにわくわくして、贈られた日記帳に、「アンネ・フランク様」と呼びかけながら、日記を書きはじめます。

一方、ルポライターの母・蕗子(松谷みよ子その人でしょうか)は、まるで次々にカードを渡されるように、アンネの生きた日々に導かれていく。こちらもアンネにあてた日記を書き続けながら、最後にアウシュビッツへ到達するのです。

物語の底辺に、青森県の昔話「鬼の目玉」が流れ続けます。
  「目玉を返せ」と若者を責めさいなみ続ける鬼。
  若者を助けたいばかりに娘は「見るなの蔵」で見つけた目玉を鬼に渡す。
  すると、鬼は消え去り、以後若者と娘は幸せに暮らした、という。
蕗子は、この結末が変だといいます。
鬼に目玉をかえして幸せに暮らせるのかと。
目先の善意でしたことが、とんでもなく大きな災厄をまねくことになるのではないか、と。
蕗子は言います。
「すべての光が消えて、わたしたちは、無数のしゃれこうべの上に坐ることになるだろう」と。

わたしたち一人ひとりの手のなかにある「鬼の目玉」
これを鬼に渡したら、幸せが約束されるのでしょうか。
いえいえ、
鬼とは、ファシズムではないかと。

アウシュビッツへの蕗子の旅。その描写の凄さ。章を追うごとに息苦しくなってきます。
殺人工場の怖ろしい過去が綴られる中で、何よりも読むのがつらかったのは、殺される前に剥ぎ取られたユダヤ人の遺品が展示してある場面でした。丁寧な刺繍のほどこされた赤ちゃんの帽子、手編みの小さな靴下。
引き換えて、ゆう子の日記の明るさ、天真爛漫さ。はずむ素直さ。
能天気な。といいつつ、このまぶしいほどの若さが輝く、これがあたりまえでなくてはいけないのだ。

  >私たちがこの苦難に耐え、戦争が終わったとき、
   まだユダヤ人が残っていたら、
   そのときこそ、ユダヤ人は世の手本と推奨されるでしょう。
   …そのために――ただそのために――
   わたしたちは現在苦しまなければなりません。 (「アンネの日記」より)

こんな日記を13歳の少女に書かせてはいけないのです。

鬼に目玉を渡さなければ、最愛の人は責めさいなまれて死ぬだろう。
鬼に目玉を渡したら、世界はしゃれこうべの上に坐るだろう。
私たちの手の中にある鬼の目玉。これは一体なんだろう。わたしたちはこれをどうしたらいいのだろう。
最愛の人を死なせはしない。しゃれこうべの上に坐ることもしない。 蕗子の夢のなかでアンネが叫ぶ…

でも、気がついているのかな、わたしたちは。自分の手の中にあるこの美しいものが「鬼の目玉」だということに。

司修の挿絵もよかったです。まるで、日記帳の余白にさらっと描いたらくがきのような。それでいて、シュールで。物語の雰囲気に合っていました。表紙のアンネは鬼の目玉をじっとみつめているように思えました。