『春になったら苺を摘みに』  梨木香歩

半年間英国に滞在することになった筆者が、20年前の英国留学時代に下宿していたウエスト夫人の家を訪ねます。
「理解はできないが受け容れる。そういうことを観念上のものだけにしない、ということ」
という一文につきるウエスト夫人の徹底した博愛主義を主軸にして、英国(また、後のカナダ)で出会った様々な境遇の様々な人たちの思い出が、過去と現在を行き来しながら語られます。
それぞれに重たくて、一筋縄ではいかないそれぞれの生き様ではあるけれど、決して重たくなりすぎることなく、ユーモアを交えて語られる出会いと別れのエピソードを読みながら、筆者もまた出会った人々のあるがままを受け容れているのだを感じました。

エイドリアンとともに去ったジョーは今どうしているのでしょう。
田舎駅の老鉄道マンのプロフェッショナルな(?)誠実さに感じてしまったり。
第2次大戦下の日系アメリカ人の話。どちらの国からも理不尽で残酷な屈辱を与えられた人が当時を「過ぎ去った思い出」として語る。独特の静けさを感じました。知りませんでした、といわなければならない恥ずかしさも。
それから、カナダのトロントに向かう夜行列車の車掌に、軽い東洋人蔑視を感じながら、むしろその不器用さに目を向ける筆者。さらに、ここからモンゴメリ(『赤毛のアン』の作者)の人種偏見にも話が及ぶのは興味深いことでした。

アメリカのウエスト夫人の妹メアリの家を、クリスマスを過ごすために訪問する件、好きです。
メアリは筆者を招じ入れて言います。
「小さいでしょう。(家のことです)でも昔はもっと小さかったのよ。それがわかったのは、ここにくるクライエントの一人にね、そういう能力のある人がいるの。彼女が最初にこの家に来たとき、そっちの棟はオリジナルではありませんね、って言うの。彼女の目には農民風の家族がこの家の中を行ったり来たりしているのが見えるのだけれど、彼らはこの端からあそこまでしか行き来しない。キッチンのある方はまったく無視しているんですって。それで彼女は、彼らにはあっちが見えていないんだ、それではきっとあちら側は彼らが生きていた頃にはなかった部分なのだろう、って思ったんですって」
そして「私の部屋は?」と聞く筆者にメアリは「彼らのテリトリーの一部よ」「好きだわ」という筆者。

また、家についてこんなふうに語られた箇所も。
「(新しい家というものは)人になじんでいないから気配が粗野だ。幸福や不幸が程良く染みこんだ家は、生体の呼吸と同じようなものを感じさせて、くつろげる」

ルーシー・ボストンの本たち(「グリーンノウ」シリーズや「リビィが見た木の妖精」など)からも感じる古い家に宿るものへの慈しみに通じるものをここで見つけたような気がします。
この本のなかにも、94歳になるルーシー・ボストンと彼女の家で過ごすひと時の描写がさりげなく出てきます。

古い農家である我が家は、数年前に、改築しました。
その折に、この家で育った娘が、「座敷童子はどこへ行ってしまうの」と聞いてきたことを思い出します
古い家には、様々な気配があったのでした。
今の建築は、ピシッとしすぎていて、こういう目に見えない存在は住みにくいのじゃないかと思いました。
梨木香歩さんの好きな家もルーシー・ボストンの家も、似ていて少し違う。わたしの愛する家も。
でも、古い家に篭るある気配を感じて、ほっとするような近しいものを感じたのです。