本泥棒

本泥棒本泥棒
マークース・ズーサック
入江真佐子 訳
早川書房
★★★★★


語り手は死神である。
第二次世界大戦下、ナチが台頭したドイツ、ミュンヘンのある町が舞台、となれば、語るべき死人については事欠くこともないだろう。
なんと不安で落ち着かなくさせる設定だろう・・・
これから起こることは最初に語られてしまう。
死神の感性はわたしたちとは少し違います。
彼は、「ミステリに仕立てていくことには興味がない」と言っている。
だけど、「それ」がどういうタイミングで起こるか、なぜ起こるか、正確にはいつ起こるのか、と言うことは語られないのです。
(あらかじめ想像していたのとは違っていました。)
つまり、問題はそれが起こったことではなくて、
それが起こるまでの間に、それから(たぶん)それが起こったあとに、何があるか、ということなのです。


主人公の少女リーゼルは、10歳のときにヒンメル(=天国)通りという皮肉な名称の貧民街に住むフーバーマン夫妻に里子として預けられます。
タイトルの「本泥棒」というのは、この少女リーゼルのことです。


「本泥棒」・・・いえ、主人公はリーゼルというより、むしろ「言葉」。
リーゼルが本を盗むのは、彼女の中に膨れ上がる苦しみに身動きできなくなったとき。
リーゼルにとってどうにもならない苦しみの時だった。
「言葉」に救われたいという切なる願いがあったのです。
その「言葉」は、彼女だけではなく、はからずも苦しみの中の他の人たちをも慰めることになります。
・・・実際彼女の盗みは、結果的には盗みとは言えませんでした。
それは、「言葉」を救い出すことであり、手渡された贈り物であり・・・
マックスはいみじくもリーゼルのことを「言葉を揺する人」と呼びました。
それは、死神が呼んだ「本泥棒」という名よりも、ずっと相応しい名前に聞こえます。


本。今、わたしのまわりにあふれている本。何処の部屋にも積み重ねられた本。
いつだって本は手に入る。図書館もある。
そして、家の中には、まだ一度も目を通したことのない(!)積読本さえもが本棚に重ねられているのです。
それを、わずか一冊二冊の本を贈られたときのリーゼルの喜び、
繰り返し繰り返し読む一冊の本、
盗んでもなお読みたいという狂おしいまでの願いに、胸がしめつけられそうになってしまう。


「言葉」は不思議。
ヒトラーが人びとを罠にかけるために利用したのも「言葉」だった。
ヒトラーは、「言葉」で人びとを陶酔させ、「言葉」で世界制服しようとした。
しかし、「言葉」は貧しい人びとを苦しみの底で、慰める力も持っていたのです。
(さらにもうひとひねり、この作者さんは気の利いたことをしてくれます。
ヒトラーの「わが闘争」をこんなふうに使うとは。詳しく書きたいけど、ダメだよね。
・・・ただ、こんなにすてきに清清しい皮肉ってないです、とだけ。)


リーゼルの里親、特に、わたしは母さんのローザが一番好きでした。
人は見かけどおりではない。
父さんのすばらしさはだれもがよくわかる。あの瞳。リーゼルに「言葉」への道を開いた人。じっと待つことのできる人。
そして、一見意気地なしに見えながら、目の前の死の行進のユダヤ人のひとりに、後先考えずパンを握らせムチうたれる人。そういう人。
だけど、母さん。小さなたんすのように見えるがっちりした体型。へつらった笑顔。
「このくそばか野郎」「ろくでなし」と始終わめき、里子をぶんなぐり、ぶちのめし、
犬猿の仲の隣人が毎日唾を吐きかける玄関扉を里子に洗わせる。
だけど「リーゼルは母さんが好きだった」――この言葉以上の説明は不要でしょう。
なぜ? 
そう、人は見かけとおりではないのです。その型の中にどんな魂が篭められているかは、容易にはわからないのです。
このわからなさが、好きです。
読んでいると、この醜く下品な女性が、ほんとうに「美しい」と感じる瞬間に、何度もめぐり合うのです。
この夫婦のことを死神はあるとき、驚きをこめてこのように記述します。「この人たちはいったい何者なんだろう?」 
ほんとうに。何者なんだろう!


リーゼルのまわりでは、次々に人が死にます。
だけど、語り手である死神は観察者に徹します。切々と訴えることをしません。
ひたすらに写実的な文章だからこそ、読みながら、たまらなくなり、苦しみ、そして、それでも、やはり、美しいものに出会うのです。
束の間の人生なのです。
そして、束の間の輝きなのです。だけどそれは確かな永遠に残る輝きなのです。
それは父さんによって、ゆっくりとひとつひとつ丹念に小さな心に植えつけられた「言葉」の種。
マックスが地下室の明かりの中で、その種を豊穣に導いたこと。そこから輝きだす光です。
そして、さらに、その輝きは、レモン色の髪の親友ルディとの盗みのなかに、互いに「ばーか」と呼び交わす減らず口の中にある。
日々の血を見るようないざこざの中にある。
マックスがリーゼルのために書いた本のなかに。
マックスの枕元にならべたリーゼルのささやかな心の篭った贈り物の中に。
地下室に持ち込まれた雪だるまの中に。父さんのウィンクの中に。
古びたアコーディオンが奏でるあのかなしげな曲の中に。母さんの笑顔の中に。
ある。
傍から見たら、これらのものが美しいはずはないのです。どれもきたない。空気はくさい。
子どもたちはいつも腹を減らし、人びとは貧しく、街中に怒りがくすぶっている。
だけど、たとえようもなく美しくかけがえのない時間のかけらも、またそこに、まさにその中にあるのです。
人が人であることのもっとも美しい部分は、外からはわからないところにある。見かけどおりではないところに。
死、死、死、死の匂い。爆撃と悲劇のなかで、人としてもっとも尊く美しいかけら。そのかけらを結ぶ「言葉」という贈り物。
こういうものが、ひとりの薄汚く粗野な小さい少女のなかで、磨きこまれ、よりおおきな輝きを放っていく。
最後のエピローグまで大切に大切に、揺すられ零れ落ちてくる言葉を拾い続けます。
落ちてくるのは、拾ったものは無骨で力強い言葉。
拾ったものがどんなにすばらしいものか、まじまじと眺めます。