『ノースウッズの森で』 大竹英洋

 

大竹英洋さんのエッセイ『そして、ぼくは旅に出た。はじまりの森ノースウッズ』を今、読んでいるところ。読んでいるうちに、大竹さんのノースウッズの写真を見たくて、この絵本をひっぱりだしてきた。これは、私が初めて手に取った(そして唯一手持ちの)大竹英洋さんの写真絵本です。


ノースウッズは、アメリカ大陸北部の湖水地方の総称である。
森は音と色が満ちている、と思う。


わたしたちは、写真の樹々の間を、苔や下生えの草を踏みながら、深い森の中に入っていく。
春の日に、雷鳥の親子を見守り(一羽足りない? 心配しなくても……)
倒木の間に、身を伏せて、眠っているかのような子鹿の顔を見つけて、驚く。
夕暮れの沼地で、じっと待っている。何かが起こるのを。
木につけられたひっかき傷を、指さして教えてもらったような気分で見る。これはだれの縄張りのサインかな。
ページを捲って、突然に現れる蘭の群落に目を瞠る。「貴婦人のスリッパ」という名前の似つかわしいことよ。
……このようにして、森をめぐっているうちに、季節は春から夏へ、秋へ、雪に閉ざされた冬へと移り変わる。
まっ白な雪原を横切って、森の中に消えて行く一筋の足あとは、新しいオオカミの足あとだ。このとき、野生のオオカミを見たいという大竹さんの願いはまだかなっていない。でも、「きっといつか」というその日がもうそこまで来ていることを知らせてくれる。


聞こえてくる。大きな音、ささやかな音。遠い音、近い音。
目にうつるのは、とりどりの色。たとえば、ほとんどモノトーンに近いくらいの色合いのなかにさえも、たくさんの細かな色が溢れていると感じる。


「耳をすましていると、遠くの木陰から、鼻を鳴らすようなブーッという音が聞こえてきました」
大竹さんが耳をすまして聞いたささやかな声を、この写真絵本のなかから、私たちは、余すことなく聞かせてもらっている。
音が満ちている……と感じるのは、写真家が、カメラの向こうに、カメラを通して音を聞こうとしているからではないか。森が生きて呼吸をする音を。
「いつも動きまわっているように感じるのは、風のせいなのでしょうか」
「一歩足を踏み入れると、森のなかはたくさんの気配に満ちていました」
森は、にぎやかだと思う。足元の苔の呼吸さえも、リズミカルに伝わってくるような気がする。
人ならぬものたちにかこまれながら、私は決して一人ではないのだ、一人どころか、何億何兆、それこそ数えきれないくらいの命の洪水のなかの、等しく尊い一点と感じる。
それが心地よい。