『荒野へ』 ジョン・クラカワー

 

 

1992年8月、一人の青年が荒野で餓死した。腐乱死体となって、マッキンレー山北の荒野で、打ち捨てられたバスのなかで発見されたのだ。
彼はクリス・マッカンドレスという名前で、四カ月前に、単身、ヒッチハイクでアラスカまでやってきて、荒野へ入っていったのだった。
彼はいったいどういう人物だったのだろうか。なぜ、ここにやってきて、ここで亡くなったのか。
著者は、マッカンドレスが残した日記(事実を克明に記していた)や手紙、彼が立ち寄った場所や、関係者たちを訪ね、緻密に取材を重ねていく。
著者が、なぜこれほどまで、この若者に深く関心を持ち、忘れられなくなっていったかといえば、「若者が餓死した顛末と、はっきりしないけれども、いくつか彼と私の人生にどことなく似ている点がある」からだった。
そして、著者は、自分自身の若い日の経験などを振り返り、自身とマッカンドレスとの共通点をあらいながら、死に至ったマッカンドレスの途を辿っていくのだ。


ある出来事を扱った本(文章)がどういうスタンスでどのように書かれているかで、その出来事の受け取り方がすっかり変わってしまうことがある。
そう思うと、こういう本を読むことは怖くもあるし、物の見方の多様さに気づかされておもしろくもある。


いたずらに亡くなった人を賛美したりはしていないが、
「私は公平な伝記作者であろうとするつもりはない」
と著者は言う。


この事件に対する、世間の意見は、賛否両論だったが、いくつか、亡くなった若者の行動に対する非難の言葉を取り上げている。
そのなかの、若者の頑迷さ、土地への軽視、一種の傲慢、という言葉は、説得力があった。厳しいけれど、公平な意見であると思った。
それでも……それでも、と思うのはわたしが、著者の案内で、少しずつマッカンドレスの足あとを辿り始めていたからで、なんとなく身内意識のようなものが生まれていたせいかもしれない。


マッカンドレスは、確かに傲慢だったし、頑固だった。ただ、傲慢さにもいろいろある。
自然を敵対視(服従か征服か、というような)しての傲慢さではなくて、自分自身を完全に自然の一部に同化(森が与えてくれるモノだけを食べて生きていく)しようとした(できると信じた)傲慢さだったのではないか。
そして、著者はいう。
「準備不足だとしてマッカンドレスを酷評すれば、たぶん、問題点を見落とすことになるだろう」


クリス・マッカンドレスは、裕福な家に育ち、大学を優秀な成績で卒業した後、家族たちの前から姿を消した。
銀行預金のすべてを慈善団体に寄付して、ほとんど着のみ着に近い姿で、アメリカ中西部を放浪する旅に出たのだった。アラスカに到達したのは、その二年後だ。
その間、クリスに出会った人たちは、彼に、おおむね好い印象をもった。
特に印象的なのは、ひどくおなかをすかせ、食べられる植物でなんとか命を繋いでいる彼が「でも、とても幸せそう」に見えた、という言葉だった。