『智恵子と生きた ―高村光太郎の生涯』 茨城のり子

 

「彫刻のなかに物語や義憤など、いわゆる文学が入り込むのは、いけないんじゃないか、彫刻は純粋に造形美術として、線や形や立体として成立するのでなければだめなのだ」と考え始めたのが、光太郎、二十歳くらいの頃。
同時に、
「自分のなかで出口を求めて溢れかえらんばかりになっている情感は、詩として形を与えてやろう。そして、彫刻は純粋に造形美術として、なりたたせてやろう」
と考えたそうだ。
「自分のなかにうごめいている表現欲を、「詩」と「彫刻」にすっきり分離してやろう」
だけど、詩と彫刻だけでなく、ほかのものも「すっきり分離」したい人だったんじゃないかなあと感じる。すっきり分離できないものも、なんとか分離して整理しようとしたんじゃないかな。


智恵子抄について。
智恵子が病気になってから亡くなるまでの六年間は光太郎には、地獄のような苦しみの日々だった。だけど、それは、『智恵子抄』のなかにはない。
「光太郎は、智恵子の魂と、からだの、もっとも美しくきらめいた部分だけをすくいとり、『智恵子抄』に結晶させています」
これも、「すっきり分離」させた、と言えるのではないだろうか。『智恵子抄』は、確かに真実であっただろうけれど、それは、本来すっきりと分離できないものを無理に分離した、片方だけの真実だ。
それだからこその美しさ、透明感(歌われない、もう片方の光太郎の真実を思いつつ)に打たれるが、それでも、もやもやしてしまうのは、『智恵子抄』は光太郎の真実であり、智恵子の真実とはいえないと思うからだ。


智恵子が亡くなり、太平洋戦争が始まる。
戦争に協力し、国民を鼓舞する戦争詩を盛んに書いた光太郎。
「ここにはもう、(若い日の留学先の)パリで人間開眼をして、
『パリの庶民のひとりひとりが、自分の主たりえている、これこそが人間の暮らしだ!』
という、光太郎の若き日からのモットーがどこにもありません」
なぜだろう。
著者・茨木のり子さんは、いくつかの理由をあげる。
そのなかのひとつ。智恵子をなくして、光太郎の内部は崩れ去ってしまったのだという。その心の荒廃に、しのびよってきたのが、下町の庶民感覚だったと。
「しんせつで、心あたたかく、おせっかいでもあり、権威に弱く、他人の暮らしのすみずみまで知りたがり、義理人情でバランスをとり、事があれば、よく考えもせず『やっちまえ!』と叫ぶ、むかしながらの日本人のふるさと……」
わたしだって、嫌いじゃない、こういう感じ。それだけに、それが戦争協力(というより夢中で旗を振る)に結びついてしまうという指摘が恐かった。
ここでも、「すっきり分離」を思い出してしまう。賛成か反対。迷いはなかったのだろうかな。
そして戦後。
戦争中に戦争を讃えた多くの文学者たちが戦後は平和を賛美するなかで、ただ一人だけ、ま正直に自分の責任に向き合い、自身を島流しにしたのも、光太郎だ。
「戦争の責任をあいまいに、なしくずしにして出発した」戦後にあって、そうではなかった光太郎の姿勢に頭がさがるが、同時に、そのようにしかできなかった(中途半端でいられなかった、いずれかにすっきり分離するしかなかった)人の人生を痛ましくも思う。