『泡』 松家仁之

 

東京から700キロほど離れた太平洋に面した町に、「オーブフ」というジャズ喫茶がある。
経営者の佐内兼定は、五年半のシベリア抑留の後に東京の実家に復員したが、父母はすでになく、実家は、いまは、彼の存在を迷惑に思う長兄の家だった。
彼は、この地に引っ越し、保険会社勤務の後に「オーブフ」を始める。店が軌道にのってきたころ、ふらっと岡田が現れ、そのまま雇われた。兼定よりもおいしいコーヒーと料理を提供する岡田だった。
岡田は過去を一切語らない。兼定も聞かない。二人の間には独特のリズムがあるみたいだ。
そして、この夏、兼定の長兄の孫にあたる薫が、期間限定でやってくる。薫は、本来なら高校二年生だが、学校に行けなくなっていた。


年代の違う男三人が集う「オーブフ」の雰囲気がよい。
軽口が得意な兼定も、無口な岡田も、そして、やはりあまりしゃべらない薫も、互いをさぐりあうようなことはしない。私生活についても干渉しない。
たぶん、だれかとチームを組むよりも、何をするにも一人でやるほうが性に合っているのだろうな、と思うような三人が、それぞれに譲歩し合って何かを支えている、微妙な連帯感がおもしろいし、独特の居心地の良さを作り上げている。


兼定のシベリアの五年半は、ときどき悪夢になって舞い戻ってくる。
それは薫が学校に対して感じる違和感に重なる。重みが全然違う……それはそうなのだけれど、似た気もちの悪さ、不快さがある。学校は……思い切って言えば、悪くすると、俘虜収容所の雛型になりかねない場所でもあった。
さらに、過去を語らない岡田も(だから、読者であるわたしも何があったか知りようがないのだけれど)よく似た何かを抱えている。


タイトル『泡』。
泡は、いつのまにか生まれ、膨れ上がり、ぱちんと弾けてあとかたもなく消える。
それは、薫が身内に抱えた症状の一つでもあり、寄せてくる波の泡でもあり、そして、私も含めて、この世に今生きている人間たちをはるかなところから俯瞰してみたときの状況でもある。


なにかが大きく動くわけではない。物語の最初と最後と何がどう違うのか、はっきりと説明できるわけでもない。だけど、読み終えたときに胸の内には丸く膨らんでくるものがある。泡みたいに。
生まれて消えて、消えて生まれて……束の間を生きる泡たち、そう棄てたものではない、と思えるのだ。