『ぼくの昆虫学の先生たちへ』 今福龍太

 

この本は、昆虫少年だった著者が深く影響を受けた「ぼくの昆虫学」の14人の先生たちにあてた手紙だ。
著者は、「私は昆虫愛好家だったかもしれませんが、収集や飼育にのめりこむマニアではありませんでした」という。
十通目の手紙のなかで(困難な本業を究めるための地道な集中力に敬意をはらいながらも)「ぼくはどこかでいつも、自分の生き方や仕事を、一つの専門領域に固定化してしまうような発想から自由でありたいと願っていました」と書いている。
だから、14人の「ぼくの昆虫学の先生たち」は、必ずしも自然科学者とは限らないのだ。
ファーブルやダーウィンがいる一方、ヘルマン・ヘッセ手塚治虫ナボコフなんて名前もあるし、メキシコの呪術医ドン・リーノなんて名前もあって、とても自由だ。
ヘッセや安部公房など、文学者への手紙は、作品の奥深い評論にもなっていて、読書ガイドとしてもありがたかった。それがどう昆虫と繋がるか……ちゃんと繋がっている。繋がっているし、(著者によって)広がっている。読書ガイドである以前に、昆虫ガイドでもあるのだから。
そして、虫たちは、人間たちによる環境破壊に警鐘を鳴らすものでもあった。
柔らかな文体、私のような生物音痴でも面白く読める易しい文章で、なんて盛りだくさんの内容を語っているのだろう。


この本のなかのあちこちには、昆虫少年がひそんでいる。息を詰めて何かを見つめ、夢中になって何かを追いかけている。
14人の先生たちへの手紙は、昆虫を追う少年の日の回想録でもあり、文章は、眩しい過去の日々を現在に蘇らせる。それは先々に続く大らかな祈りとなる。(14人の先生たちへの手紙のうち、最後の手紙が、メキシコ山岳地帯の呪術医ドン・リーノへの手紙である、ということは、きっとこの本が祈りそのものだから)
「私が蝶を通じて親しくなった土も、樹々も、空も、単なる物理的な自然環境ではなく、きっと一つの願いの場であり、祈りの場だったのです」


添えられた細密な昆虫の標本画は本当に美しいが、それにもまして素晴らしいのは、本の表紙(カバー)の二つの蝶の絵だ。この絵の作者は6歳の少年(小さい時の息子さん?)
決して大人には描きだすことのできない伸びやかな線が、絵のなかの動かない蝶に命を吹きこんでいるようだ。