『ザリガニの鳴くところ』 ディーリア・オーエンス

 

「湿地は、沼地とは違う。湿地には光が溢れ、水が草を育み、水蒸気が空に立ち昇っていく。緩やかに流れる川は曲がりくねって進み、その水面に陽光の輝きを乗せて海へと至る。いっせいに鳴きだした無数のハクガンの声に驚いて、脚の長い鳥たちが――まるで飛ぶことは苦手だとでもいうように――ゆったりとした優雅な動きで舞い上がる。」


点在する沼をくねくねした水路が結び、海に至る湿地の美しい描写にほうっとため息が出る。
そうはいっても、ここに人が住む、となると、町の住人にとっては、侮蔑と差別の対象になってしまう。湿地は、普通の暮らしができない人生の落伍者たちが、逃げ込む場所だったからだ。
この湿地の貧しい小屋に、少女カイアは幼いころから一人ぼっちで住んでいた。カイアのことを町の人たちは知っていたけれど、「湿地の少女」と呼び、関わることを避けた。


カイアにも最初は家族がいた。
だけど、カイアの母が、小屋を出て行ったのはカイアが六歳の頃。その後、大きい兄姉から順番にぽつぽつといなくなり、最後には飲んだくれの父親もいなくなった。
一人残されたカイアに、生活の仕方を教えるものも、人と付き合うことを教えるものも、だれもいなかった。学校にも行かなかったので読み書きもできなかった。


カイアを助けたのは、美しい湿地だった。鳥や虫が友人で、海や木々が親だった。
湿地が、長い年月にわたり、孤独で無防備な少女を、守り、育て、教育した。
彼女の深い孤独を思えば、簡単にそんなふうに言うべきじゃないかもしれないけれど、湿地は、彼女に物の見方や考え方を教え、大切に育て上げたのだ。
その出来栄えを、湿地に心あれば、おおいに自慢に思うことだろう。


カイアは、自分が町に受け入れられていないことを知っていたけれど、ほんとうは、彼女のことを心にかけている人たちがわずかながらいた。
湿地の野生動物のような彼女が、人としても生きていけるように力を貸してくれた一握りの人。彼女のことを友人のように、娘のように、妹のように、それから恋人として、思いを寄せた人。
なかでも、彼女に変わらない愛情を持って影になり日向になり見守り続けた夫婦が、被差別者の黒人であったことが心に残る。


物語の冒頭で、湿地で命を落とした青年が発見される。
事故か殺人か……
殺人かもしれない……そして、カイアに容疑がかかり、裁判にかけられることになる。
審理が進めば、どんどん露わになってくるものがある。
偏見や差別のすさまじさに慄くけれど、むしろ、(一握りとはもしかしたらいえない)複数の人たちの偏見のない目にも気がつく。


「生命が朽ち、悪臭を放ち、腐った土くれに還っていく。そこは再生へとつながる死に満ちた、酸鼻なる泥の世界なのだ」
物語のプロローグのなかの言葉だった。
ザリガニの鳴くところ(=生き物が自然のままの姿で生きる場所)は、酸鼻なる泥の世界でもある。
町の暮らしに馴染んだものには、受け入れがたいこともあるけれど、それでも、そこは、再生につながる場所なのだ。