『(歌集)悪友』 柳原紘

 

悪友

悪友

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もしも日記に記すとしたら、その日は特筆すべきことがあったはずだ。
外出した場所、会った人、準備をしてきた行事や果たした義務も……。
そう書くそばから、私の言葉は味気なくなっていく。その「特筆すべきこと」は、どこの誰になり変わっても、さほど変わらないのではないか。
どうしたら紛れもなく私の一日と呼べるだろう。むしろ、もっと些細な事を記すべきだろうか。
だけど、そこで、隣に寝る人の寝息、目の前のプリンの形、噛んで吐き出したガムの事などが思い浮かぶだろうか。それらは、あまりにささやかすぎて、光景が目の前から消える前にもう忘れてしまうというのに。まして、そこで何を思ったかなんて……。


いやいや。
歌詠む人は忘れないのだ。
覚えておく価値なんて無さそうな一瞬の光景、一瞬の思いを、歌人は歌に詠む。
歌が、その一瞬を特別な一瞬に変えて、その日もきっと彼だけの特別な日になる。

「機嫌なら自分でとれる 地下鉄のさらに地下へと乗り換えをする」

「この柘榴、蟻の味する ゆるされたいことはあるけどきみにではなく」

「立ちながら靴を履くときやや泳ぐその手のいっときの岸になる」

「ことばから補助輪が外されてなお漕ぎ出した日の事を言うから」

「六月の夢にも黄砂がふいていてきみの寝息がたまにつまずく」


歌で日記を書いているようでもある。
アニメや漫画についても、歌に思いを託す。

「立つ鳥が跡を濁さぬ寂しさを肯う昼よ さらば楽園」

「ルーティンのひとつに僕はなりたいよ君のバットが芯を捉える」


旅の歌もあった。色や形だけでなく、匂いや音までも描き込んだスケッチみたいだ。

「すれ違うひとがNie,nie,nieと言いながら携帯電話を耳に沿わせて」

「取り違えられた帽子で風を受け借り物の加護のなかで笑った」


「過去の自分の歌をこの一冊のために組み直すことは、僕がどのようなことに怒り、苦しんでいたかを、鮮やかに思い出すことでした」
とは、あとがきのなかの言葉。
三十一文字の歌の後ろには大きな背景がある。読者の私に見えても見えなくても。
歌には土臭くない力強さがある。弾力がある。
怒りや苦しみさえ、弾みを帯びていて、歌になったときから、瑞々しいほかのものに変わっていきそうな気配だ。
たとえば、その怒りは、小さな種。やがて柔らかく芽吹き、いつの日か青々とした葉を茂らせるにちがいない。

「サドルには日照雨が残り手の甲でかるく拭って漕ぎ出すまでだ」