『ゴリランとわたし』 フリーダ・ニルソン

 

 

児童養護施設育ちのヨンナは「九歳でゴリラに引き取られました」
ゴリラは毛むくじゃらですごく大きい。
夕ご飯にこどもを食べるつもりでヨンナをひきとったのかもしれない、そう思うとヨンナは怖くてたまらない。
そんなことはないと知ったあとも、ゴリラが養親だなんて情けないし、ゴリラのだらしなさも嫌で、そばにいたくない、と思った。
だけど、最後には……そうそう、もちろん、そういうことになるに決まっています。この二人、こんなに素敵なコンビはちょっといないよ、という関係になるのだ。


ゴリラの名前はゴリラン。
「ゴリランはみんなとちがっています。だれかに向かって鼻にしわを寄せる、なんてことは絶対にしません。ゴリランは自分らしいのです。そして、ゴリランに変わってほしいなんて、わたしはもう思いませんでした。それならみんなが変わればいい」
偏見や思い込みに、どんなに私たちは囚われているか。ヨンナのこのことばは、自分を縛る鎖をすぱんと断ち切る鋏のようで、それは小気味よいのだ。


とはいえ……これは、良識(?)にとらわれるわたしのような読者への挑戦状か? 子どもがいる場所として、あなたは、この環境に、どこまで耐えられる?
子どもが引き取られた家は乱雑。
子どもは髪をとかさなくなる、歯磨きもしなくなる。
子どもの食事は毎食、目玉焼きをのせたパンと気のぬけたソーダのみ。
子どもの保護者は、粗大ごみに値段をつけて売る仕事をしているが、その商法ときたら……あれもこれも詐欺と思う。
子どもの保護者は、時には泥棒もする。
子どもの保護者の運転は、いくつもの交通ルールを無視している。
などなど……「ゴリランは自分らしいのです」だけでは、わたしには済ますことができないのだ。


それでも、ゴリランとヨンナが引き離されそうになれば、読者としてはこんなに辛いし、良識の人に、その理由として、上に挙げたことのいくつかを言われたとしたら、あなたにこの二人の暮らしの何がわかる、と反発したくなる。
滅茶苦茶だけれど、読者をそんな気持ちにさせるようなものがゴリランとヨンナの暮らしにはある。
それがどんなふうであったか、ヨンナと一緒に、もう一回最初から読み直して確認してみようか。
良識なんてとんでいくよ。(いや、それはやはり……)