『ウィリアム・モリス通信』 小野二郎

 

 

ウィリアム・モリスの終の棲家ケルムスコット・マナ・ハウスを訪ねて、バーフォードの町の美しい町並みをそぞろ歩くところから始まる。
町の美しさは、ほとんどの建物に使われている、コッツウォールドの石の美しさだった。


19世紀後半、装飾デザインの分野で活躍した英国の芸術家、ウィリアム・モリス。 傑出したインテリアデザイナーであると同時に、画家、詩人、グラフィックデザイナー、出版人、社会主義活動家と多彩な顔をもち、それぞれの分野で目覚ましい業績を残した。
ウェブであらましの情報を浚ってから、この本を手にしたつもりだったけれど、読み始めてすぐに、これは私には難しい、と感じた。
この本は、ウィリアム・モリスのやさしい入門書ではない。
ウィリアム・モリスという芸術家について、業績や評価など、ある程度は知っていることが前提で、そのうえでの「とは、いっても」「というよりはむしろ」の先から始まっていたのだ。
もしかしたら、出直してきた方がいいかな、と思ったけれど、少しでも理解(できるところだけでも)したいじゃないか、と思いながら、ゆっくり読んだ。
もしかしたら、とんだ早とちりかもしれないし、本物の宝に気がつかないうちに「読了!」と本を閉じてしまったのかもしれないけれど、心に残ったことをメモしておきたい。


「装飾は建築の主要部分だ」という言葉が印象的だ。まず建築物があって、装飾はいつでも取り替えられる、おまけみたいなもの、と思っていたから。
「装飾は細部において生命力を発揮しないかぎり、その存在価値を根底において失うであろう」
装飾とは、ざっくりいって趣味、だ。そして、趣味は思想なのだそうだ。
この趣味という言葉、ひまつぶしのお楽しみくらいの意味では語っていないのだと思う。
「世界あるいは宇宙をつき動かす原質的な力」という言葉もある。芸術につながるもの。
「芸術とは人間の自然への冠である」
「(芸術は)人間の自然に対する尊敬の表現」という言葉も。
趣味が芸術になり、芸術が思想に結びつく、という理解でいいのかな。
人の生き方の羅針盤が、趣味、という考え方にくらくらする。
趣味という言葉には、大きな膨らみがあるのだ。


大量生産による安価で粗悪な商品が巷にあふれていたころ、モリスは、中世の手仕事に帰り、生活と芸術を統一することを主張した。それはどういうことか、と言えば……
人にとっての実用品は、「目先の目的手段の関係を充足させるだけではだめなのだ」と著者は書いている。
「人間のもっとも深い記憶、いな宇宙のもっとも深い記憶をめざめさせる機能が選ばれねばならぬ」と書いている。


日々、考え考え、そのまま自然への尊敬の表現になるような暮らし方を、ときには文明批判も含めて、選び取っていく。それは、どんな暮らしかたになるだろう。
時に、ひっかかるものがあるなら、立ち止まって、それはなぜ、と考えながら。


ウィリアム・モリスのデザインを見たくて、ネットで探しているうちに、ほしくなってきてた。求めやすい価格のブックカバーなら買えるかな。