『さいごのゆうれい』 斉藤倫

 

 

物語は、「はじまりのはじまり」から、はじまる。
「「かなしみ」や「こうかい」がない、じだい。
だれもが、できたてのパンみたいに、ふわふわして、しあわせだった」
そして、これから始まる物語は
「そんな、しあわせな〈じだい〉が終わり、かなしみがもどってくるまでの物語」だと書いてある。
「ぜったいハッピーエンドじゃなさそうだよね」とも。


夏休み、お盆の初日に、小五のハジメは、へんてこな形の飛行機がおりてくるのを見かけた。飛行機は、小さな女の子を一人だけおろして、消滅してしまった。
女の子の名前はネムで、自分はゆうれいなのだ、という。
飛行機は、ゆうれいの国からにんげんの国へ飛ぶお盆航空で、ゆうれいたちの「いき」で飛ばしているのだそうだ。
けれども、ゆうれいは、最近、少なくなっていて、「いき」の力も弱ってしまった。
ネムは、もしかしたら、さいごのゆうれいかもしれなかった。
なぜ、ゆうれいは少なくなってしまったのだろう。
人間の世界で「ひとそうどう」起こしたいネムハジメに、絶滅しかけたゆうれいを保護しようという「絶滅存在保護機構」のミャオ・ターや、ゆうれいを成仏させようという托鉢僧ゲンゾーなど、おかしな人たちが加わり、お盆の珍道中が始まる。


「ものすごく、うつろで。
足をふんばっていないと、そこに飲み込まれてしまう、洞穴のようなもの」
「見えないのに、水みたいに、ひとを重くする」
それがかなしみだ。
かなしみは、気力も、健康もうばってしまうことがある。
でも、ハジメにはわからないのだ。「かなしみ」を経験したことがないのだから。
だけど、これが、幽霊がいなくなっていく現象に深く関係しているようだ。


世界じゅうから悲しみが消えた「じだい」があって、この「じだい」(といっても、ほんの十年足らずの間)は、「大幸福時代」と呼ばれた。
この物語で、大幸福時代は幕を閉じる。
そうなることを選んだのだ。
選んだ、というのは、幸福を横においても、進んで、悲しみや苦しみを自分のなかに迎え入れる覚悟を決めることでもある。
苦しい選択でもあるけれど、同時に思いがけない素晴らしいものを迎え入れることでもある。
最初の予言(?)どおり、ハッピーエンドというのとはちょっと違うけれど、それとはくらべものにならないくらいの何か、だ。
おとなになる、ということは、きっと自分の「大幸福時代」を自ら進んで手放すことでもあるのだ。


ゆうれいの子どもネムがなんともかわいい。「あわあわと」した様子が。
そして、托鉢僧ゲンゾーの「おもいとは、橋のかたちをとるものなのだ」という言葉が心に残っている。