『戦争と児童文学5 空爆と暴力と少年たち3『弟の戦争』~遠い戦争への共感共苦とは何か』 繁内理恵 (『みすず』2018.12月号より)

 

ウェストールの『弟の戦争』は、戦争を描いたYA作品のなかでも、忘れられない作品の一つだ。(わたしの『弟の戦争』の感想は

http://kohitujipatapon.hatenadiary.com/entry/2004/10/10/000000

に書いています)
繁内理恵さんの連載「戦争と児童文学」第五回は、『弟の戦争』(ロバート・ウェストール)をとりあげている。


「戦争と児童文学5 
 空爆と暴力と少年たち3 『弟の戦争』--遠い戦争への共感共苦とは何か」繁内理恵


トムの弟フィギスは、不思議な(テレパシーのような)共感力をもっていた。
たとえば、新聞の一枚の写真の飢えた子どもの苦しみを生身の体に感じる(同化する)。
「フィギスは痛みそのものの存在になってしまう」
「究極の共感の形、しかも自分では拒否することのできない共感」
そして、そのために「フィギスは、絶対的に孤独な存在」なのだ、と著者・繁内理恵さんはいう。
「絶対的に孤独な存在」という言葉に、フィギスのいる場所の意味が少しわかったような気がする。家族はフィギスを繊細で優しいと思っているが、そんな言葉が似合わないほどの圧倒的な寂しさのなかに彼はいたのだ、ということに、わたしは、初めて思い至った。
普通なら、共感どころか、誰一人、フィギスの痛みに、ほんのわずかだって触ることもできない。(その能力(体質)がないから)
けれども、いや、だからこそ、「共感」に至る道をなんとかして、みつけたいではないか。
この物語は、「共感」の物語なのだ、と著者の読み解きを追いながら思う。


「武器も権力も何一つ持たぬ少年のところに、なぜ戦争はやってくるのか」
「なぜ、ふつうの家庭に戦争はやってくるのだろう」
と、著者は書く。
『弟の戦争』の兄弟の父親と、母親の、戦争に対する考えかたの違いについて、『戦争は女の顔をしていない』(スヴェトラーナ・アレクシェーヴィチ)や『三ギニー~戦争を阻止するために』(ヴァージニア・ウルフ)などの文献を取り上げながら、そこにある根深いジェンダーの問題に触れる。
「そこにいる生身の人間の心や痛みを切り捨てる」父さんは、「男の言葉」で戦争を支持する「普通の人」なのだ。
「父さんのような普通の人々は、この戦争を熱く支持した。その中に踏みつぶされていった小さな人間の物語はなかったことになっていたのだ」
「ウェストールは、男らしい言葉にコントロールされている普通の人々の無自覚さに、少年に憑依した少年兵という、踏みつぶされてしまった小さな物語を対峙させようとしたのではないか」
と、ここまで読んで、あっと思う。
『弟の戦争』で最後に消えてしまった「あれ」は、つまりそういうことだったのだ。
踏みつぶされて、最初からなかったことになってしまった、小さな物語の顕れだ。


弟のからだのなかにいるのは、フィギスであり、イラクの少年兵ラティーフだ。
物語の主人公は、フィギスの兄だ。
「ラティーフと同調していた弟ではなく、ただ手をこまねいて見ているしかなかった兄の苦しみの中に生まれ、育っていったもの、これこそがコンパッション、共感共苦の力ではないかと思うのだ」
との著者の言葉を反芻する。
この評論の最初のほうで、フィギスの究極の共感力に触れ、普通の人たちはそういう共感力を持ちえないことを確認し、それ故に、フィギスは「絶対的に孤独な存在」であった。
「絶対的に孤独な存在」という言葉は、戦場にほうりこまれたラティーフたちの姿に重なる。
フィギスを通して、その恐ろしい孤独に気づかされる。
フィギスを通してラティーフの魂の叫びを聞く。
フィギスを通して、さらに彼の兄を通して、ラティーフの声を、読者であるわたしも聴いていたのだ。
『弟の戦争』のあの場面この場面が、鮮やかによみがえってくる。