『月を見つけたチャウラ―ピランデッロ短篇集』 ルイジ・ビランデッロ


この本の15の短編に、あえて共通点を探すなら、ほとんどの物語で、狂気が生活にぴったり張り付いている感じがすることだろうか。
物語は、かなり陰鬱であるはずだが、陰鬱であればあるほど、バカバカしいほど陽気な声で語られるのだ。


『手押し車』の中の狂気は、その形だけ見れば、思わず笑みがこぼれそうに可笑しい。受け取り方によっては、小噺のようにも感じる。
・・・でも笑えない。
語り手は、自らの狂気を自覚し、人の目から隠そうとする。それでいてきっと見せたいのだ・・・せめて読者に。
その瞬間を、うまいこと目撃させられた時の、なんともいえない薄気味悪さを味わってしまった。


『笑う男』のどうしようもない虚無感も、『すり替えられた赤ん坊』の二重三重にがんじがらめにされたような意地悪さも、本来、すごく後味が悪い。
狂気のかけらは、わたしの生活のまわりに、あちらにもこちらにもあるのだ、と言われているような気がする。
人と人とが関係を持つ、ということがそもそも狂気の始まりなのだ、とわざわざいらぬことを耳打ちされているような気がする。


けれども、不思議に不快なままに終わらない。それだけではないからだと思う。
少なくとも、事態を突き放して冷笑しているのではない、と思う。
読者を、どうしようもない場面の目撃者に据えつつ、作者の目は、登場人物の弱みに寄り添っているように感じるのだけれど。
一番最初に読んだのが表題作の『月を見つけたチャウラ』だったから、かもしれない。
15の短編のなかで、これが一番よかった。そして、この本一冊読み終えるまで、ずっとこの物語の余韻が続いていたのだと思う。


『月を見つけたチャウラ』
鉱山で働く採掘工たちの一番不運な爺さんのところの見習いのチャウラの毎日は、目を覆いたくなるほどの惨めさだ。
彼の仕事場は真っ暗闇である。けれども、なんともやりきれないのは、彼にとっての闇は、鉱山の中ではなくて、むしろ、その外にある、ということだった。
彼の日常が変わるわけではない。何かが好転するわけではない。明日も明後日も、ずっとこのまま。
しかし、最後の数行で出会った、はっとするほどの美しさはどうだろう。
一瞬で、惨めな人生が祝福された人生に変わった。


使徒書簡朗誦係』も好きだ。
彼以外誰も知らないし、まったく重要に思われないもののために、消えていく命があることは、苦い笑い話なのだろうか。
いやいや、大切なことばを私は彼に残してもらったんだと思っている。


『紙の世界』は、印象的であった。
皮肉な話であるけれど、本好きを自認する者が、どうして笑い飛ばせるだろうか。
「本を読むことができないなら、死んだほうがましだ」という男が、ある日、突然に視力を失うのだ。
右往左往する彼の行動、傍目には極端に見える彼の一挙一動が、突き刺さってくる。
沈黙の中から聞こえてくる言葉に耳を傾け、闇の中に浮かび上がるページに目を凝らす。


不思議な作品集である。狂気と無限の喜びの世界とを同時に味わった。