父と息子のフィルム・クラブ

父と息子のフィルム・クラブ

父と息子のフィルム・クラブ


父親の手によって書かれた、16歳で学校をドロップアウトした息子との三年間の記録。
と一言でいっていいわけがない。誰にとっても、一言で言える三年間なんてあるわけがない。


最初のページで、この父は、つい最近、成人した息子を街で偶然見かけたと書いている。
その書きっぷり(?)から、今や息子は自立して、堂々と人生を歩いているらしい、と感じる。
親にしてみれば、それは、このうえなく幸福で充足した瞬間であり、同時に、一抹の寂しさも感じる瞬間でもある。
どんな状態であったにしても、親子がともに暮らした日々は(親である自分にとって)かけがえのない至福のときだったと、振り返る。
このような書き出しで、この記録を始められる、ということは、この記録は、ある種「成功」の物語だったんだな、と思う。


ドロップアウト、とはいうけれど、この父親は、息子に、学校をやめるか続けるか、自分で判断し、決めるように言ったのだ。
学校をやめさせられたのではない、やめることを息子は自分で選びとり、決めたのだ。
・・・それがすごい、と思うのだ。
わたしがこの子の親だったら、ここまで潔くはできないだろう。
学校なんてたいしたことないよ、と口で言うのは簡単。
この子はこれ以上学校に通うことは無理だろう、この子を学校にやってもいいことはないだろう、と感じたとしても、
やっぱりこんなふうには思わないだろうか。
それでも、せめて、せめて卒業だけはしてほしい…。


学校をやめるにあたって、父親が出した条件が、
「麻薬をやらないこと、一緒に週三本の映画を見ること」――
この本の巻末には、父と子が三年間に一緒に見た映画のリストが掲載されている。
父親の職業は映画評論家である。


わたしは映画、あまり見ません。見ないから、知らないのです。
そういうわたしが、この父(著者)が語る映画の見どころに反応し、見たくてたまらなくなる。
父が息子に言う「あのシーンを見逃すな」というそのシーンは、
俳優のちょっとした表情の変化だったり、目立たないしぐさだったり、
言われなければ見逃してしまいそうな、些細で、しかもほんの一瞬の場面。
でも、言われてみれば、それを見たくてたまらなくなる。そのシーンを確かめたいばかりに映画を一本見たいと強く思うのだ。
または、この映画(俳優)は一流どころではない、でも「何か」がある、といわれれば、
その「何か」を感じたくて、やっぱり映画を見たくなるのだ。
父が指摘するその一瞬は、映画の要だろうか、その映画の全体をこの一瞬が握っていることを言いたいのか・・・
わたしは、この父の指摘する「見逃すな」の「一瞬のシーン」に、この父子の三年間を当てはめていた。
息子の人生を握る三年間は、長い人生のなかの一瞬の一場面に過ぎないかもしれない。
無意味なように見える停滞した暗い一瞬かもしれない。
けれど、ものすごく大切な意味のある一瞬だった。


父は、それでも悩むのだ、苦しむのだ。
自分のやっていることは正しいのか、意味があるのか。
息子といっしょに道を踏み外して、ただ迷い続けているだけなのではないのか…
堂々としていられるわけがない。
自信を持って突き進んでいるわけではない。迷いに迷い、ときに打ちひしがれる。
だって、愛するわが子の人生が掛かっているのだ。


訳者あとがきのなかに、こんな言葉がある。
「それでも彼が、“フィルム・クラブ”をやめようとしなかったのは、映画というたぐい稀なメディアに対して、それが内包するポジティブな感化力に対して、揺るぎない信頼を寄せていたからにちがいない」
映画が持つ底力、奥行きの深さに、驚嘆する。
しかし、それ以前に、父親の息子への信頼、どんなに絶望的に見えても務めて信頼しようとし続けたこと、をかけがえなく思う。
映画は、たまたまこの父が持っていた、いうなれば道具(?)だった、のではないか。
父親が子に、自分が積み上げてきたものや価値観、人生観、希望、何より息子への愛や信頼を伝える為の、彼にとって、よく使いこなされた道具だった。
(別の親子には、また別の道具があるに違いない、と思う)
父は息子の問いかけに答えて、何度も言う。伝え続ける。
「おまえは素晴らしい人生を送れるさ。絶対に送れるとも」
「(ぼくって才能あるかな、にこたえて)何トンもあるさ」
心に沁みる言葉たち。