ブリギーダの猫

ブリギーダの猫

ブリギーダの猫


ナチス・ドイツ占領下のポーランドワルシャワで、
ユダヤ人たちを助け匿い、逃がしつづけたポーランド人の家族(実在)がこの物語のモデルだそうです。
この家の一人娘、六歳のヘレナの視点で、彼女が当時見聞きし、体験した「現実」を描きます。


ヘレナのおとうさんの偉大さは、日本の杉原千畝(「日本の子どたちへ」と題した作者のあとがきで触れていました)や、
オランダのミープ・ヒースさんたちと重なります。
偉大で・・・普通のよき人だったのだと思います。
でも、平和な時代ならいざ知らす、ナチス占領下に、普通の人が、流されず、勇気を持って、普通であろうとすることはどんなに怖ろしいことだろう。
まして、ヘレナという小さな子どもを抱えて。命をかけて。
普通の人が普通を貫くこと、自分以外の人の普通をも大切に守ろうとすること・・・その偉大さはとても一言で片づけられるはずがないのです。


主人公ヘレナ、おしゃまな6歳。
彼女の見えるままに描かれた人物像、できごとなどは、大人の言葉・感覚を交えず、ただ、そのままの文章になって置かれています。
そっけないくらいに何の説明もなく。
それは、読み流してしまうこともできるけれど、一場面一場面、奥行きのある場面になっている。
(ことに家族・知人間の人間関係を表すような言葉や場面など・・・)
これはどういう意味なんだろう、この場面に登場する人物は一体何を考えていたのだろう。
ほとんど想像するしかないけれど・・・


思えば、子どものころの思い出ってそんなふうだった。
きれぎれの場面が鮮明に残っている。あとから振り返ってみれば、あれはこういうことだったんじゃないか、と思い当たったりする。
当時はそこまで考えが及ばなかったけれど、ほとんど本能に近い部分で、何かひっかかっていた。だから忘れられなかったのだ・・・
子どもの感覚は、時におそろしい。大人よりずっとはっきりと大切なものを把握している。それは理屈ではない、もっと強くて、鮮やかな形で。


六歳の少女には、戦争の意味も、ユダヤ人が迫害される理由も、そもそも迫害されているという事実さえもわからないのです。
わからない、ということは、余計な偏見に邪魔されず、見るべきもの聞くべきものをまっすぐに感覚的にとらえることができる、ということなのだと思う。
時に、彼女の無邪気さ、危なっかしさにはらはらするのですが、彼女の見聞きしたものの映像は、鮮明に、まっすぐ心に響きます。
そして、彼女の無邪気さのせいで、いっそうやりきれなさが募る。


主人公ヘレナの住む町には、カトリック教会、ギリシヤ正教会シナゴーグと、三つの宗教の教会があります。
ヘレナは「三位一体」とは、三人もの神様が一緒に住んでいるという意味で、それはすばらしいことだと信じています。純粋に。
同じ神に祈る者を殺す、戦争と迫害の時代に、なんて皮肉だろう、と苦々しい気持にもなります。


ドイツ兵がゲットーの入口(?)の門扉にひっかかったコウノトリを苦労して助け、大空に逃がしてやる場面も心に残ります。
それは、ゲットーの広場で遊ぶ子どもたちにむかって、まるで鴨を狩るように発砲していたのと同じドイツ兵だろうか。
ここにも別の「普通」があるのかもしれない。
ドイツ兵、平和な時代であれば、何でもない顔をしておだやかに暮らしている人にちがいない。
時と場合によって、限りなく残虐にもなれる、これも普通の人なのだ。


ヘレナのモデルは、イレナ・モリソンさんという女性。
彼女にとってこの物語は物語ではなかった。どんな酷い場面も、すべて、彼女が実際に体験したことばかり。


作者は、「日本の子どもたちへ」とした作者あとがきのなかで、
第二次世界大戦中のユダヤ人絶滅という悲劇を子どもたちに書くべきかどうか、迷ったといいます。
作者の背中を押したのは、日本人小学校教師の言葉だったのですが、
ほんとうに正しいのかどうか、今もわからない、と言います。
わたしは・・・やっぱり書かれたことを感謝します。でも、それは、書かれたからには読まれるべきである、という意味ではありません。
もちろん、この本を実際に読み、驚き、悲しみ、怒り、そしていろいろなことを考える子どもはきっとたくさんいる。
でも、むしろ、この本に動揺し、「これ以上読めない」と途中で放り出し、あるいは二度とみたくないとそっぽを向くたくさんの子どもたちの
そういう子どもたちの感受性を大切にしたい。(今は読めない、という形で、この本から何かを受け止めている。)