パワー(西のはての年代記3)

パワー (西のはての年代記 3)パワー (西のはての年代記 3)
アーシュラ・K・ル=グウィン
谷垣 暁美 訳
河出書房新社


主人公ガヴィアは、幼いころ、姉のサロとともにさらわれて奴隷にされました。
ガヴィアの主は、「良い人」たちで、とりわけ、子どもたちの教育に熱心でした。
そして、自分の子どもたちと奴隷の子どもたちとをいっしょの教室に置いて、同等の教育を受けさせました。
小さなころから聡明なガヴィアは、将来は教師(教師はどこの館でも代々奴隷のようです)になり、
館の子どもたちを教え導くことを期待されていました。
ガヴィアは、支配するものとされるものがいる、ということをあたりまえに思って育ち、
自分が奴隷という身分であることをそのまま受け入れ、
むしろ、良い主家に仕えていることを幸福にさえ思っていたのでした。

>ある世代が、知識は処罰の対象になり、安全は無知の中にあることを学ぶとします。次の世代は自分たちが無知であることを知りません。知識とは何なのかを知らないのですから。
・・・これは二巻「ヴォイス」からの引用ですが、
一歳かそこらで奴隷になったガヴィアは、自由というものが何なのかを知らないのです。
そして、無知であることで、確かに幸せではあったのです。まがいものだとしても。苦い目覚めが待っているとしても。
子ども時代のあの夏の日々の思い出は、なんと美しく輝いていることでしょう。
けれども、奴隷であるということが、
主人にとって「家畜」と同じくらいの意味でしかない(簡単に売り買いし、その命は軽く、いくらでも容易に取り換えがきく)
ことを苦く取り返しのつかない事件から知り、
初めて自分の立ち位置に気がつくのです。


ガヴィアの自由への旅が始まります。
さまざまな人との出会い、別れ、期待し信頼し、裏切られ、ひたすら隠れ逃げます。
オレック・カスプロの小さな詩の写本「世界の始まり」をポケットに入れて、全身を詩と物語で満たして。
ガヴィアは、はじめてカスプロの詩に出会ったとき、涙を流した。
奴隷であることに疑問すら感じなかったあの日、彼の心を動かしたのはなんだったのだろう。
「自由よ!」の意味をどこまでわかっていたのか。頭ではなく、もっと奥深い意識のない世界に響いていたのだろうか。

>ぼくは『世界の始まり』をあまり頻繁に読んでいなかった。難しいし、自分とかけはなれた、異質な感じがした。けれどもときおり、『世界の始まり』の詩句やデニオスの詩句がふと心に浮かび、春にブナの葉が開くように、その美しさや意味を見せてくれることがあった。
・・・この感覚、すごくわかります。こういう経験はきっとだれにでもあるにちがいない。
それをこんなに美しい言葉で表現しているのを読むと、ますますうれしくなります。


やがて、次々に彼の境遇は変わり、その都度、あちらでこちらで暗唱するこの詩。
そのときどきに響く「自由」という言葉が、ガヴィアの中でどんどん深まっていく。
そして、ひとつの明確な形を取り始めます。
ガヴィアの自由は、体の自由ではなく、心の自由。
実際、たぶん・・・たぶん、奴隷売買のない都市にいきつくことが目的ではなくて、
それ以上の自由にいきつくことを彼は目的にしていたのでしょう。
精神の自由です。
そして、それは、朗唱する詩のなかに、物語のなかに、あることを知ったのでしょう。
文学は、詩は、物語は、人を自由な世界に解き放つ。
物質的な到達ではなく、心の到達(その門への)・・・それがガヴィアにとって、「ここ」であり「彼」だったのだ、と思います。


三冊の本を読み終えて、思うのは、文学の凄み、輝き。
人を解放し、自由にし、さらに遠く高く深く旅をさせる文学の可能性・・・
ガヴィアは、たぶん、その入り口に今たどりついたのではないか。メマーも。
そして旅の途上にあるオレックも・・・もっと遠くはるかな道を歩き続けるのでしょう。
ああ、本をもっともっと読みたいなあ。もっと大切に大切に読みたい。(すぐ忘れるくせに)