月と六ペンス

月と六ペンス (新潮文庫)月と六ペンス
ウィリアム・サマセット・モーム
中の好夫 訳
新潮文庫


「僕」がつきあった画家チャールズ・ストリックランドは、ゴーギャンのことだそうです。
タイトル「月と六ペンス」の「月」は、人間をある意味で狂気に導く芸術的情熱を指すものであり、
「六ペンス」は、ストリックランドが弊履のごとくかなぐり捨てた、くだらない世俗的因習、絆等を指したものであるらしい。
(訳者あとがきによります)


ストリックランドの生きざまを第三者の目から追えば、どう考えても許せないもの。
芸術家である前に、人間として生きられないなら、芸術にどんな意味があるだろう、とも思う。
だけど、何もかも包み隠さず赤裸々に描き出されるストリックランドの姿は・・・。
彼は自分の生きざまについて弁解はしないし、ずるい真似をするわけでもない。
ただ、これはいったいなんなのか、本能?天性? その命じるがままにやみくもに突き進んでいるように見える。
その突き進む道筋にあるものは自分にとっての障害物か滋養物か、どちらかでしかないのだ。
それはめちゃくちゃなのに、一種清々しくさえある。


そして、善良で良識のもとに生きている人々(ストリックランドを囲む人々)があわせもつずるさや虚栄、計算高さのほうが、
むしろいやらしく感じさえする。
この小ささを、天才の特異な人生と対比させようとしているのか。


誰一人(ただ一人をのぞいて)彼の作品を評価する人なんていなかった。
評価されたいとも思わなかった。
描きあげた瞬間から彼にとってその作品はもはや意味を失った。捨て去り、火をつけて灰にして・・・
そして、生前の彼の作品をこてんぱんに言っていたのに、その死後、価値を認められるや否やのばか騒ぎったら、
この本ってコメディだった? 
どこの世でか、ストリックランドが、この様子を見ているだろうか。皮肉に冷たく笑いながら。
あるいはすべての作品を火に投じなかったことを後悔しているのだろうか。
ただやみくもに描く。描くという行為は、彼にとってなんだったんだろう。
この男は悪魔なんだろうか。
彼をこのように生かしたのは、人間以外の何かのように思える。


とりつかれでもしたかのように生き急ぐ芸術家。
なのに、その姿を描写するモームの筆は、寒々と冷静です。
このアンバランスさに、ストリックランドが、というより、作者をも含めて狂気のようなものを感じてしまう。
ストリックランドと作者(または語り手「僕」)が、どもに狂気の中にいる。
真逆に見えて、実はそっくりなふたりなのではないか、とも思う。


天才、と簡単に呼んでしまうことさえはばかるような、でも一体それでは何と呼べばいいか・・・
なんとなく遠巻きにして、言葉を失くしてただ、眺めているような読後感です。