『道行や』 伊藤比呂美

 

道行きや

道行きや

 

 『木霊草霊』は、著者がカリフォルニアに住み、日米を往復していた頃のエッセイだったが、あれから何年経ったのだろう。著者は日本に戻ってきた。
今は、自宅のある熊本と、東京(職場である早稲田大学)を毎週往復している暮らしだ。で、あるのに、このエッセイの中に出てくる植物たちの(あえて言わせてもらえば)胡散臭さは、『木霊草霊』から越境してきた蔓の先のようだ。
犬と散歩する河原の叢を覆いつくすネナシカズラやアレチウリ。クズが出てくれば、『木霊草霊』のいかがわしいイメージが蘇る。
あの本のカリフォルニアの家のなかにあった観葉植物たちが、そこから持ってきたはずもないのに、こちらの本の熊本の家で、元気にしている。ムサシアブミ、マムシグサ……この名前をなんで憶えていたかといえば、ことにその花の、どちらかといえば恐ろし気な姿に、ぞわっとしてしまったからだ。可憐という言葉が似合わないどころか、そんな言葉を使ったら、せせら笑われそうな風情である。
それからトウダイグサ科のユーフォルビアという植物(かわいらしい花じゃないか)をせっせと世話するが、茎から出る汁は毒だという。植え替えのときに誤って目をこすったり鼻をほじったりしたら、のたうちまわるような苦しみを味わうことになる、というのだから強烈だ。
なぜ、こういう植物を好むのだろう。
「知覚がある。そして予測し、行く道を変える。もしかしたら悪意さえ持つ」
という言葉は印象的だ。
それは、理想的な生き方なのかもしれない。なんの遠慮もてらいもないよ、とばかりに思うように生きている植物たちに、読んでいるこちらの恐れが、畏れに変わるような感じだった。
 

でも、この本はもちろん、植物のエッセイではない。
父と夫を看取った後、それぞれの道を歩く三人の娘をアメリカに残し、犬を連れて熊本に戻ってきた著者の日常。アメリカの永住権をもつことと日本人であることの間で考えたこと、大学の講義に苦しみ、学生の感想に傷ついて、さまざまな友人たちとの再会を喜んだり、会えない人と築いてきたものを懐かしんだり、ともに暮らす犬の気持ちを気にかけたり……日々の出来事、考えたこと。



立田山の(三体目の)山の神の社を詣でたあとに、森の中で道に迷い、何度も何度も同じ場所に引き返して道を探した話『山のからだ』など、おもしろい。
思い通りにずんずん生きているように見えるけれど、その実、案外不器用に、たくさんのまわり道や戻り道をしている伊藤比呂美さんの『道行き』。おおらかに、繊細に。
どの回り道も(どうにもしんどそうに見えるけれど)後悔の「こ」の字も見当たらない。楽しそうなくらい。