『詩人になりたいわたしX』 エリザベス・アセヴェド

 

詩人になりたいわたしX

詩人になりたいわたしX

 

 

これは、もうすぐ16歳になるシオマラの詩のノートだ。彼女はここに、そのときどきの自分の気持ちを詩に書く。


「    ノートをつかむと、
    書いて、書いて、書く。
こういえたらよかったのにってことを全部。
そして詩を作る。心のなかに生まれた鋭い
  言葉を使って。自分がばっくり
     切りひらかれる
      感じがする。        」


家族について、信仰について、女であることについて、好きな男の子について……


シオマラの生活は、とても窮屈だ。理不尽なめにあったことは何度もあった。
シオマラに詩があったことをよかったと思う。
「言葉は、ありのままの自分を解き放つものなの」
「ときどきわたしは自分の気持ちに詩という服を着せる」


シオマラの詩は、のびやかだ。
シオマラの詩は、ときどき火のようだ。触ったらひりひりと焼かれてしまいそう。
彼女は納得できないことをことばにする。
彼女はそうして戦おうとする。大切なものを守ろうとする気概もある。実際、彼女は強い。
だけど、決して闘えない相手が、ひとりだけいることが、私は気になっていた。


それはマミ(母)、支配的なマミだ。
シオマラの上に覆いかぶさるかのようなマミは強烈だけれど、彼女の来歴を知れば、なぜそうなったのかよくわかる。(15歳の少女の親を見る目の確かさよ)
そして、どうあってもこの母は変わることができないだろう(変わる必要があるなどとは決して思わないだろう)ということもわかってしまう。
私はこの母親が気になって仕方がないのだ。
ここまで強烈ではないにしても、私の中にも小さなマミがいると思うから。


幼い頃の思い出をつづった詩がいくつかある。
母のそばにいることで安心していた頃のことをシオマラは覚えている。
例えば……
ある時、母の留守に、双子の兄とソファからソファを飛び回って遊んでいた。ふと振り返ると、リビングの戸口に母が立っているのが見えた。
「わたしは母にとびついたのだ。そこには自由があった。
 とびつくことに。抱きしめてくれると信じることに。」
……大好きなフレーズ。今のシオマラと母の関係を思えば、泣きたくなってしまうフレーズなのだ。


大きくなった子は親にとびつくことはしないけれど、いつか、思いがけない形で「抱きしめてくれると信じて」何かを始めることがあるのかもしれない、ということに、驚いてしまう。
その驚きは……抱きしめる側と抱きしめられる側がいつのまにか反転していることの気づきでもある。