『バートラム・ホテルにて』 アガサ・クリスティー

 

 

ロンドンの一画にあるバートラム・ホテルは、1965年(この年の末に、この本は送り出されたというから)にあって、エドワード王朝時代のたたずまいを保っている。
佇まいだけではない。すごいのは何より人。いったい過去から集めてきたのか、と思うような従業員たちが、六十年前のままに、心こめて客をもてなす。
こまごまと描写されるホテルの様子を読んでいけば、隅々までの徹底的なこだわりに舌を巻く。
ミス・マープルはいう。「ポケットのような隠れ場所だわ」


次々、クリスティーを読んでいると、時々、ミステリーであろうがなかろうが、そんなことはどうでもいいや、と思う作品に出会う。それは、偉大なミステリ作家に失礼な言い方だろうか。でも、そうなのだ。
この本。
私は、この本の雰囲気が大好きだ。ミステリでも、ミステリじゃなくても。


この雰囲気。
今まで読んだクリスティー作品を思えば、かなり異色なんじゃないだろうか。
凝り過ぎたホテルは、芝居がかっていて、素敵というより、そこはかとなくいかがわしささえ感じて、落ち着かない。この落ち着かなさに、ぞくぞくする。
よくできたテーマパークだろうか。いいや、むしろ不思議なカーニバルに迷い混んだ。
奇妙で非日常な気分を存分に味わった。


事件は起こっているのか、起こっていないのか。
なにかが進行している。なんとなく感じるが、それは……事件としては、なんというか、きれいすぎるような気がして、そのきれいさが落ち着かない。いやいや、まだ全貌が見えない。
その人はそこにいたはずなのに、やっぱりいない。
いないはずのとんでもないところに、いない人がいる。
いったいどういうことなのだろう。
大きなことが起こっているような気がする一方で、人知れずおびえているあの少女は、いったいなんなのだろうか。


登場人物はあまりにあまりに多くて、覚えられない。
読んでいる、というよりも、大勢の人たちの間を練りあるいているような気がしてくる。
雰囲気にあまりにしっくりくる主任警部も、ミス・マープルさえも、群衆に混ざり混んでしまう。
ああ、やっぱり、これはカーニバル。


読み終えて、なぜここで終わるか、と思った幕切れも、一方でそれがどうした、とも思うのだ。
だって、もうカーニバルは終わったのだ。
あとは、地面に残った紙吹雪の残骸を拾いあつめるだけなのだろう。


ミス・マープルの苦い言葉とともに現実に戻ろう。
「人は過去にもどることも、また過去にもどろうとしてもいけない。ーー人生は前へ進むことだということ。ほんとに、人生って"一方通行"なんですね」