『ふたつの海のあいだで』 カルミネ・アバーテ

 

 

イオニア海ティレニア海に挟まれた南イタリアカラブリア地方の丘の上に、嘗て「いちじくの館」という宿屋があった。
19世紀に、作家アレクサンドル・デュマは、友人の画家ジャダンとともに、ここに立ち寄ったことを『アレーナ大尉』(未邦訳)に書いている。
「いちじくの館」主人一家のもとには、デュマの手稿の一部と、ジャダンが描いた宿屋の家族のスケッチとが残され、代々、大切に受け継がれてきた。
現在、ふたつの海の間の丘の上にあるのは、廃墟である。長い年月誰にも省みられなかったこの廃墟「いちじくの館」を生涯かけて再建しようとしているのがジョルジョ・ベッルーシで、ジョルジョ・ベッルーシのことを語るのは、孫である「僕」フローリアンだ。


プロローグに当たる「旅立ち」では、幼かったフローリアンが祖父ジョルジュ・ベッルーシを見失い、再び見出す(すがりつく)までのことが、詩的な文章で抒情豊かに描かれる。それは、実際に、離れて暮らしていた祖父と孫がふたたび顔を合わせた出来事のことでもあるけれど、もっとずっと後に、もっと深い意味で祖父を受け入れる(あるいは祖父に受け入れられたと感じる)事でもあると思うのだ。


それまでのことが、フローリアンによって、母によって、祖母によって、あるいは「もう一人の祖父」や……ジョルジュ・ベッルーシを愛する多くの人々の語りによって、描かれる。それこそ「おとぎ話」のようだ。


ジョルジュ・ベッルーシの「いちじくの館」再建に寄せる夢は、何度もあと一歩のところで、このうえなく理不尽なやり方で頓挫させられるのだが、彼は決してあきらめない。
焔のような激しさと、不器用なくらいの一徹さで、崩されたものを、何度でも一から積み上げ直す。
彼にとって、この館はいったい何を意味するのだろう……


訳者あとがきに、
「タイトルにある『ふたつの海』は、両側から≪いちじくの館≫を抱くティレニア海イオニア海を意味するだけではない」と書かれている。
続けて、
「物語の語り手フローリアんが生まれ育ったドイツの冷たい北海と、母の生まれ故郷である南イタリアの、灼けるような陽射しが照りつける地中海というふたつの海でもあり……」
と書かれていて、物語のなかから「ふたつの海」が多重的に浮かび上がってくる。
そうしたいくつもの「ふたつの海」が「いちじくの館」という一点に合わさっていく当り前さと奇跡とを、不思議な気持ちで味わう。


高いセッタルタ山から見おろせば、≪いちじくの館≫は、「まるで緑と黄いろの海原に浮かぶ一隻の船のよう」に見えるそうだ。
「その両側にある碧い眼のように見える海では、波しぶきが白い泡をたてている」そうだ。
読み終えて思い出すのは、作者によって差しだされた多くの鮮やかな風景だ。その風景の中に喜んで溶け込んで生きようとする小さな人びとの姿だ。人の思いが風景のなかに溶けこんで、風景が人そのものになる。