『ジョイ・ラック・クラブ』 エイミ・タン

 

 

ジョイ・ラック・クラブとは、週ごとに集まり、麻雀卓を囲む中国人女性たちの会だ。
彼女たちは、それぞれ、1940年代の終わりごろ、アメリカに渡ってきた。
そして、アメリカで、子どもたち、ことに娘を生んだ。アメリカ人たる娘を。
四人の母と四人の娘が交互に、自分の過去、現在のことについて語り出す。


四人の母たちは、中国で、過酷な日々を送った。
望まない結婚、過酷な日々と離婚。女によるいじめ。男による蔑み。
戦争。迫ってくる残虐な日本兵
この時代に、私たちの母たちも、ほかの国の母たちも、きっと似たような辛酸をなめていたかもしれない。
ただ……この四人の女たちはやられっぱなしではなかった。
彼女たちは、自分に苦い水を飲ませた相手に一矢報いるための策略をねる。甘受すべしといわんばかりの運命にも一矢報いようとする。
そのしたたかさ、逞しさに舌を巻く。
そのようにして、与えられた運命を退けて、アメリカに渡ってきたのだった。


彼女たちの娘たちは、中国人だけれどアメリカ人だ。
いつまでも娘の人生の主人のようにふるまい、ねじ伏せようとかかってくる逞しい母は、娘にとって鬱陶しいばかりだ。


母は虎だ。でも、母は、血を分けた自分の娘も虎であるべきだと思っている。
「二匹の虎の常として、娘はわたしに歯向かうだろう。でも、わたしが勝ち、彼女にわたしの精神を与えるだろう。母親が娘を愛するというのは、そういうことなんだから。」
「子供達には、最高の組み合わせを願っていた--アメリカの環境と中国人の性質。この二つが混じり合わないことなど、知るよしもなかった」


四人の母はそれぞれ、生まれた場所も経験も違う。四人の娘もそれぞれ違う。
それぞれの物語を読みながら、それぞれとともに、理不尽さに憤り、悔しさを噛みしめた。つまらないことに鼻を高く上げたくなったり、恥じ入ったりした。
八つの人生の物語を小間切れに読んだはずだけれど、実は、母と娘と、二つの物語だったような気がしている。
そして、二つの物語は、いつだって入れ替わるように思うのだ。母は誰かの娘であるし、娘は誰かの母でありうるのだから。
途切れることなく続いているこの流れがどうして葛藤や絶縁の連鎖であるだろうか。


もしかしたら……かつて、あの母たちが、自分の人生に一矢報いたように、物語もまた、この流れに一矢報いた、ともいえるのではないか。