『風のヒルクライム』 加部鈴子

 

 

「笠城山の総合案内所まで、距離にして二十キロ、標高差千二百メートルを自転車でかけ上がるヒルクライムレース」
ヒルクライムレースという眩暈がするような競技があることを初めて知った。
わずか百メートルたらずのなだらかな坂道を自転車で行くことさえ億劫なわたしである。
それなのに、
「こんな朝早くから、二千人以上の人が集まって自転車で山を登ろうなんて、みんな何を考えているのだろう」と、登場人物の一人から堂々とそんなセリフが出てくれば、さすがに……いやいや、そうではないのだろう、それはこの物語を読み終えたらきっと心からそう思えるはずだ、と思うのである。


六章+エピローグのこの物語、各章の語り手はみな違う。
三人の中学生、二人の高校生、それから、一人の大人、である。さまざまな思いを胸にこのレースに参加する人物や、運営側のボランティアであり、物語は、レースのコースをリレーのように繋いでいくのだ。
連作短編といってもいいかもしれない。
彼らは全員、すべての章(物語)にちゃんと登場している。でも、自分が主人公(語り手)として登場する物語は、レースのなかでの時間にしたら、ほんのわずかな時間にすぎないのだ。
そのわずかな時間に、どんなドラマがあるのか……


それぞれが、それぞれなりの思いを胸に走っている。言葉にならないもやもやを抱えて走っていたり、だからこそ絶対に負けられない意地もあるし、レースが終わったら言おうと思っている言葉もある。彼らの暮らし、ここまでの道のりが透けて見えたりもする。
各人のほんのわずかな持ち時間のなかで、わずかに何かが動く。何も起こらなかった、と言ってもいいくらいのわずかさなのだけれど、それが、彼らのなかで風を起こす。


レース、といえば、勝ち負けが気になるではないか。順位やタイムなど、大切ではないか。
だけど、いつのまにかそれを忘れる。
目指すゴールはそれぞれで違うし、走っているうちに変わってくることもあるのだ。
柔軟に、おおらかに変わっていく彼らの走りはなんて気持ちがいいのだろう。