『ポケットにライ麦を』 アガサ・クリスティー

 

都会的な大きな会社の秘書室から物語が始まったので、あれ、と思う。アガサ・クリスティーだよね、ミス・マープルだよね。
これまで、牧歌的な田舎町が舞台だったから、勝手がちがうじゃない、と驚いている。
社長のフォーテスキュー氏が毒殺される。場所は社長室。
ぞわっとしたのは、亡くなった氏が着ていたスーツのポケットにライ麦が大量に入っていたことだ。
大量の血が流れたわけでもないし、残虐な描写があるわけでもない。だけど、ぞーっとするのは、違和感以上の不気味さを感じてしまうからだ。
麦なら、食品として、あるいは芽を出すべき種として相応しい場所がある。こんな都会的なオフィスの、ビジネススーツ(だろうと思う)のポケットなんかに大量に入っているべきではない。意味がわからないものって、なんでこんなに怖いのだろう……


やがて、舞台は、田舎町ベイドン・ヒースのフォーテスキュー社長のお屋敷に移る。(そうそう、こうでなくては。)
第二、第三の殺人が起こり、先に出てきたポケットのライ麦が、(犯人の独断にせよ)一続きの規則の一部であることを知り、なんだか、ほっとしてしまった。(少なくとも、得体のしれない恐怖から解放された)
本当はほっとなんかしていられないのだけれど。ますますこんがらかって、解決に至る見当もつかない泥沼に嵌っていくのだけれど。


ミス・マープルは電車を乗り継いで、この町にやってくる。事件の被害者の一人は、彼女と繋がりのある人間だったのだ。彼女は、犯人の冷酷さに怒っていた。
事件を担当したニール警部とミス・マープルとで事件を解明していく。
協力、というのとちょっと違う。
「いまも申しあげたように、あなたとわたしは異なる視点に立っています」
とのニール警部の言葉通り、別のルートを追って事件解決に向かう。その道すじが、まるで二重奏のようで楽しかった。


物語のなかで、心に残ったのは、あのひとのこの言葉だ。
「子供時代が幸せだったなら、それを奪うことは誰にもできません」
だれの思い出のなかにも、どこかに、あのときのことだ、と思えるような光景があったらいいのに、たとえ一瞬でも、と思う。
辛いとき苦しいとき、きっと遠い過去から光を送ってくれる。支えてくれる。