『蜜のように甘く』 イーディス・パールマン

 

蜜のように甘く

蜜のように甘く

 

 

子どものころ、雪の日に、手袋に受けた雪の一片が小さな星の形をしているのをはじめて見つけた。この短編集を読みながら、あのときの驚きと、感動を思い出していた。
何のこともなく過ぎていく日々。なんのこともなくすれ違っていく人びと。ただそれだけなのだけれど、気をつけて、ゆっくり眺めれば、それは誰かにとっての特別な一日でありうるし、その人は特別な人なのだ。その人のなかには、確かな何かがある。と感じる。
私がみたのは、たぶん、いろいろな「何か」のうちの特別の輝ける何かなのだと思う。雪の結晶みたいな。でも、それは硬質で、雪のように簡単に溶けたりはしない。
『お城四号』は、あの人のなかで、この人のなかで、特別のそれが、共鳴して鳴り出したように感じた。音楽みたいだ。
『石』では、「それ」を、たとえば、『お城四号』のあの人のように素直に受け止めたってよかったのだと思う。だけど、それができない。理由は、はっきりしている……
また、『初心』や『従妹のジェイミー』みたいに、「それ」があることを思い出すたびに、ずっといたたまれない思いをし、傷は癒えないのだ、と確認することになってしまうこともある。
『帽子の手品』では、「それ」が、彼女たちの進む道をずっと照らしていた、と確信する。


いろいろな生き方をする人びとのいろいろな思いを読む。たとえ、ちくちくとまだ痛むな、と思いながら読み終えても、残るのは、不思議な明るさ、清々しさだ。ほのかなユーモアさえ感じた。
どんなに救いがなくても、あるいは自分から望みに背を向けたとしても、そんなことはたぶんそれほど重要ではないのかもしれない。
だって、あなたのなかにはそれがあるでしょう。たとえば、『石』に出てきた、あの美しい黒い石みたいに、それはきっと変わらない確かな姿、硬さ、重さでそこにあり続けるのだ。そのことを思うと、胸に満ち満ちてくるものがある。
そして……
選んだこと、選ばなかった事。喪失と獲得。幸せと不幸せ。成功と不成功。反対言葉のようなどちらも、本当はそんなに変わらないのかもしれない、と思い始める。大切なことは、そんなことじゃない。いつかずっと後になったら、選んだ事と選ばなかった事の区別も、はっきりしなくなるに違いない。


表紙カバーの写真、女性の横顔が印象的な美しさだと思った。この横顔の女性もまた、ただ、胸の内にある「それ」をずっと手放さず、暮らしていた人なのだろう、と思った。この短編集のもう一つの、言葉のない作品みたいだ、と思った。
……目次の前のページに小さく、「カバー写真 イーディス・パールマン 自宅にて」と書いてあった。