『掃除婦のための手引き書』 ルシア・ベルリン

 

 

巻末のリディア・デイヴィスの解説によれば、「ルシア・ベルリン作品の多くは彼女の実人生に基づいている」ということだ。そして、その実人生とは。……信じられないくらいの紆余曲折と、様々な境遇を生き抜いてきていた。これが、ただ一人の人生だということにびっくりしてしまうくらい。
作者の経歴を短いセンテンスで羅列しただけで、とんでもなく濃い物語をひとつ読んだような気持ちになるが、この本の24の短編小説は、それを……別の空間に投げあげたような感じ。
事実と真実は違うのだという。作り話を巧みに事実に混ぜ込むことで現れる真実があるのが、小説なのだ、物語なのだ、と。
もっと言えば、事実かどうかなんてどうでもいいのだ。確かに、事実が「ほんとうのこと」であるとは限らないのだから。
一場面一場面を眺めれば、テイストの違うどん底ばかり、暗闇ばかり。だけど、語られる言葉には、ユーモアがある。射してくる光の明るさも感じる。何か毅然としたものがあるのを感じる。こんなにも目を背けたくなるような場所なのに。


たとえば、『ファントム・ペイン』では、 奇妙にねじ曲がっていく認知症の昔語りの後、父は、ある行動に出るのだが……ここを読んで、はっと息をのむ。すべての事を脇に置いて、娘はそのまま動かずにいるのではないか、むしろ、そうするべきなのではないか。そうして終わるのだと思った。が……
『掃除婦のための手引書』では、饒舌に語られる日常の中に埋もれそうな、様々な家庭の睡眠薬一錠ずつの行方……
『最初のデトックス』の終わりに現れる生活のなかの苦くも確かなルーティンよ。
それから、『ドクターH.A.モイニハン』や『ファントム・ペイン』などでの、父や祖父の黒人差別は、あからさまであるほど戯画でしかなくて、差別するほうの側の惨めさが浮彫になってしまう。


そして、言葉……
「わたしは家が好きだ。家はいろいろなことを語りかけてくる。(中略)本を読むのに似ているのだ」(『喪の仕事』)
「文章を書くとき、よく「本当のことを書きなさい」なんて言うでしょ。でもね、ほんとは嘘を書く方がむずかしいの」(『さあ土曜日だ』)
「人が死ぬと時間が止まる。もちろん死者にとっての時間は「多分」止まるが、遺された者の時間は暴れ馬になる」(『あとちょっとだけ』)
どれも、鮮やかで、こちらを貫くような鋭さがある。どきっとしたそのあとで、飴でも舐めるようにゆっくりと味わい、また味わいたい言葉ばかりだ。


最後の物語『巣に帰る』には、「もし」という言葉が出てくる。
人生を振り返れば、無数の「もし」が思い浮かぶけれども、たとえば、あのときの「もし」。あのとき違う選択をしていたら……
語り手の言葉の最後の一行に、これまでの24の物語が一気に甦る。確かな存在感とともに。