『牧師館の殺人』 アガサ・クリスティー

 

 

クレメント牧師が牧師館に帰宅したとき、彼の書斎では、来客が後頭部を撃たれて死んでいた。
亡くなったのは、この地方の治安判事プロズロウ大佐で、セント・メアリ・ミード村には、彼がいなくなってくれたらいいなと思っている人間(容疑者)がすくなくとも七人いるのだ、と後に、ミス・マープルは言ったものだった。
振り回してくれるのは、ミス・マープルをはじめとした好奇心旺盛なおばあちゃんたちで、村じゅうを駆け回る噂噺に翻弄されてしまう。
人が死んだというのに、なんなのだ、この生き生きした連中は。
「セント・メアリ・ミードというところはよどんだ池のようなところだと思っています」
ミス・マープルの甥っ子で作家のレイモンド・ウエストはこんな風に言う。
「顕微鏡でのぞいてみたら、よどんだ池の一滴くらい生気にあふれているものはないんだからね」


池の一滴--人は、見かけによらないものだ。
そもそも、ミス・マープルからして、某警察関係者の言う「言う事が当てにならないばあさん連中」の範疇から大きく外れた名探偵であるわけだから。
また、ある娘については「見かけほどぼんやりじゃない」と思い知らされる瞬間があるし、
ある夫は、妻のことを「無能」「何事もまじめに考えることができない」と思っていたのに、「妻の家事のきりもりが、思ったほどでたらめではなかったこと」にある時突然気がつくし、
ある婦人が便宜上「愚鈍という仮面」をつけていることは知る人ぞ知る、だ。


クレメント牧師は考えるのだ。
「なぜだれも彼もが物事を一般論に当てはめるのだろうか」と。「一般論に当てはめても正しい場合はめったにないし、たいていは全く不正確なことばかりだ」と。
そうだよねえ、と頷きながら、この事件のあらましを、いつのまにか一般論に当てはめて考えていた自分に気づかされる。
でも。ミス・マープルでさえ、最初はそこに陥ったのだから、それも仕方がない。
そして、こんな巧妙な落とし穴を掘って、綿密な計画のもと事件を遂行した犯人の冷酷さにぞっとするのである。


事件が片付いて、幾人かの人たちが、(一般論にのっとって)被っていた仮面を外して素顔を見せてくれたことを楽しみつつ、驚きつつ、一方で、こんな仮面をかぶらなければいられなかった人びとの暮らしのしんどさなどを思う。「よどんだ池」のような村(ミス・マープルによれば、世界の縮図)がちょっと鬱陶しくなる。