『リマ・トゥジュ・リマ・トゥジュ・トゥジュ』 こまつあやこ

 

リマ・トゥジュ・リマ・トゥジュ・トゥジュ

リマ・トゥジュ・リマ・トゥジュ・トゥジュ

 

 

サヤは、父の転勤のために二年半マレーシアで暮らした後、日本に帰ってきた帰国子女だ。
この二学期から日本の中学の二年生の教室に在籍しているが、一番怖いのは「帰国子女ぶってる」と言われること。まわりから浮かないように気を付けて日々を送っている。
そんな彼女を、短歌の吟行に誘った(というよりほぼ強行した?)のが、図書委員の佐藤莉々子先輩。颯爽としていて、いつも一人でいる彼女は校内でも恐れられる存在だったが……


サヤが懐かしむのがマレーシア生活の解放感だ。
人種も年齢も様々な集団のなかで、「みんなが同じ、ではない。ちがいがあること、それがふつう」と、伸びやかに二年半を過ごしてきた少女には、なんでも横並びの日本の学校はさぞ苦しいことだろう。
と思うけれど、そう思っているのはサヤだけではなかった。
あの子もこの子も、息を詰めて無理をして、でもそうしていることを誰にも知られないように注意しながら生活していた。
クラスで、いじめが起こっているわけではない。深刻な差別が行われているわけでもない。実際には、なにも問題は起こっていない。
それなのに、この子たちは、これから起こるかもしれないこと(起こらないかもしれないこと)を警戒して、そのときに余計なけがをしないように、痛い思いをしないようにと、先回りして、びくびくしている。
そうやって窮屈な入れ物のなかに自分を追い込んでいる、閉じ込めているように見える。
彼らに必要なのは、まずは自分自身からの解放だろう。言うは簡単だけれど……中学の教室には、それを阻む目に見えない独特の空気があるのだ。


吟行を重ねる莉々子先輩とサヤ。
まるでツイッターに短文を投稿するような気安さで短歌を詠んでいくのだな、と思った。
ほんとうはただそう見えるだけだと思うけれど、そのために、短歌のハードルが低く思えて、楽しくなってしまう。
一冊の英単語カードを使って、まるで交換日記のように、互いに短歌を投げては返していく二人。


「わたしに見えている部分が、その人のすべてじゃない」
そう思う時、きっと自分も、いろいろな部分を持っていること、これからももっともっと持てることを見つけたのかもしれない。


タイトルの「リマ・トゥジュ・リマ・トゥジュ・トゥジュ」
おまじないのようなこの言葉には、もちろん意味があるけれど、何より口ずさんで楽しい言葉だ。読み終えてからも、気がつけば、いつのまにか口の中で唱えている。